第八話
紅蜘蛛丸は最前からずっと、鹿子が
黄泉戸喫というのは『記紀』などの日本の神話に登場する概念だが、例えば古代ギリシャ神話をはじめとして、世界各地に類話が存在する。簡単にいえば、生ある者が冥界の食物を口にすると地上に戻ることができなくなる、ということを指す。
「あの、お客様、申し訳ございませんご注文の品の方は大至急作り直してお持ちいたします。そちらのお客様も、弁償などは結構ですので……」
と、まっとうな事を言うのは獣耳を頭に生やした店員なのだが。
「じゃあそれはいいですけど、ベニグモさん、最初の一杯の方を奢ってもらいます。えーと……あれ? このメニュー、金額が載ってないな」
「そうだろうな。この街の通用貨幣は、
魂貨とは人間の魂を百等分し、貨幣に変換したものである。この神威小路に独自のものではなく、多くの異界で同じような仕組みが用いられているので、紅蜘蛛丸はよく知っていた。
「……そうです」
と、言うのはようやく口を開いたパウチコロムンである。
百枚の魂貨が手元に揃っていなければ、異界から人間世界に帰ることはできない。全ての魂貨を失えば、その人間は永遠に異界に囚われることになる。
「何かを口にすればそれだけで帰れなくなる。迂闊に買い物をしただけでも、何らかの手段で魂貨を取り戻さなければ脱出できない。周到な二段構えだな」
「紅蜘蛛丸様……」
「この娘はわたしが連れて帰る。たれか異を唱えるものはあるか」
がたん、と音を立てて立ち上がった者がいた。鹿子がいる、その隣の席だ。紅蜘蛛丸よりも大柄な男だった。
「それは。オレのエモノだ。手を出すな」
紅蜘蛛丸は鹿子に目を向け、目線で、知っている奴か、と問う。鹿子は首を横に振った。怯えが見て取れる。この場所のおかしさにようやく気が付いた様子である。
「ウェンカムイか」
アイヌの言葉では、人の肉の味を覚えたヒグマをそのように呼ぶ。ヒグマは一般に執念深い生き物で、自分が目をつけた獲物を横取りされることを非常に嫌う。
「やめなさい。このお方を誰だと思っているのです」
勝ち目はないからやめろという言外のニュアンスを込めてパウチコロムンが止めに入るが、大男は聞かなかった。
「どうやってオレを止める。オレを殺すのか」
紅蜘蛛丸は冷たい目で大男を見る。
「わたしを、この場所から、ただの一歩でいい、退かせてみろ」
「なに?」
「それが出来たら、あとはお前の好きにするといい。だが、出来なかったら、お前がわたしに従え」
「……おもしろい。わかった」
大男の全身が膨れ上がり、衣服が弾け飛び、巨体の大熊がその場に姿を現す。人化の術を解いたのだ。鹿子は悲鳴を堪え、しかし真っ青な顔をしている。
大熊はがっしと紅蜘蛛丸の肩のあたりに腕を置いた。むん、と力を込めて、動かそうとする。しかし、ヒグマの巨体が生み出す絶大な膂力をその身に受けているというのに、紅蜘蛛丸は微動だにしない。
「グオォォォ……!」
大熊は唸り、さらに力を込める。しかし、紅蜘蛛丸を退かせるどころか、本人の様子がおかしくなり始めた。苦悶する。
「ギィァァァァ!」
そして前のめりに、ばったりと倒れかかる。紅蜘蛛丸はようやく腕を振り、倒れ込んでくるその巨体をうっとおしそうに払いのける。
紅蜘蛛丸は彼岸花が自らに向けた死の呪いを体内に蓄積している。それを、触れられたところからウェンカムイに伝染させた結果がこれであった。
「加減できる限り加減した故、死んではいない。三日は目を覚ますまいが」
重苦しい沈黙が店内を包んだ。
「お前たち。二度と人を殺めるな。二度と人を喰らうな。わたしは、またここに来る。次はないと思え」
紅蜘蛛丸は鹿子の手を取った。鹿子は素直にその動きに従った。卓上に置いてあったしゃれこうべを抱え上げ、出口の扉に手をかける。
「もう一度言う。……また来る」
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