第七話
「そなたは」
とだけ言って、紅蜘蛛丸は口を噤んだ。どういう付き合いの誰と連れ立ってここに居るにせよ、自分とその女の関係や、自分が知るその女の職業について人前で口にしてはまずいかもしれないというくらいの気働きができぬ紅蜘蛛丸ではない。
だからパウチコロムンに分かったのは、そこに居る女が紅蜘蛛丸の知人であるということと、その女は定命の人間であるということだけである。
しかし。まずい。
だいたい、誰だ、人間の女を連れ込んだのは。今宵、この日に紅蜘蛛丸を神威小路に入れるから、今夜一晩だけは絶対に我慢をしろと、皆に伝えてあったはずなのに。
間を置いて発せられた紅蜘蛛丸の声は真剣なものであった。
「娘。ここが何処であるか、分かっているか?」
「は? 札幌市の中央区にある狸小路商店街ですよ。なに言ってるんですか。相変わらずおかしな人ですね」
「不躾だが、聞かせてもらう。連れは」
「僕はひとりですが……ベニグモさんの方がそうではないのでは。お連れさんをほっといていいんですか? なんか怖い顔してますよ?」
「この店に入ってから何かを口にしたか」
「いえ、まだ。お冷が来ないんですよね。混んでるっぽいから仕方ないけど」
「この店の前は」
「六丁目の魚平で飲んでましたが……あれ? そういえば、ここは何丁目だっけ」
迷い人か。入り口は閉ざしていたはずなのに、とパウチコロムンは思う。ただの人間が、引き込まれるでも誘われるでもなく、この神威小路に入り込んでくることは通常ならばあり得ない。可能性があるとすれば……例えば、よほど強大な力を持った何者かに接触して、『こちら側』つまり彼岸の世界に魂を引かれた状態にあるだとか……
「紅蜘蛛丸様」
と、パウチコロムンは咄嗟に口火を切った。
「この街を誰が創ったか、というお話についてですが。モシレチクチク・コタネチクチク、という名を御存知でいらっしゃいますか」
「……知っている。
長過ぎるためにあまり使われないが、異伝ではモシレチクチク・コタネチクチク・モシレアシタ・コタネアシタとも云う。アイヌ神話に登場する悪神としてよく知られた存在であり、古い叙事詩の中で英雄神アイヌラックルと争い、そして冥界テイネポクナモシリに封じられたとされている。村滴滴国滴滴というのは、その名を和訳したものである。
「それがこの場所に関わっていると? しかし、それにしては——」
「お待たせいたしました」
と言って紅蜘蛛丸の言葉を遮ったのは店員である。頭の上に獣の耳があった。つまりこれも人ではない。
「『たっぷりフルーツのパフェ』のお客様」
パウチコロムンが小さく手を挙げた。店員が、こんもりと果実の盛りつけられた美しい器をパウチコロムンの前に置く。
「こちらが『塩キャラメルとピスタチオ』になります」
そっちは紅蜘蛛丸の前に置かれる。しかし紅蜘蛛丸は『塩キャラメルとピスタチオ』には注意を向けなかった。盆の上に、もう一つパフェグラスが残っている。店内で、まだサーブを受けていない客は鹿子だけであると、彼は既に把握している。
紅蜘蛛丸は素早く立ち上がり、すれ違いざまに盆の上の器を払い落とした。派手な音を立ててグラスが砕け散り、『白玉きなこクリームの和風パフェ』が哀れな残骸と化した。
「あー! それ僕の注文したやつ!」
鹿子は気付いていないが、パウチコロムンはじめその瞬間を見ていた者の目に紅蜘蛛丸の故意は明らかだった。
「おっと、すまん。厠を借りようとしたのだが……深酒をしていてな。いや申し訳ない、弁償は引き受けよう。それはお幾らかな?」
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