第九話

 紅蜘蛛丸に手を引かれて七丁目まで戻ってきた鹿子は、いままで自分がいた街の入り口に『神威小路8』とあるのを確かに見た。その眼前で、幻のアーケード街は宙に溶け込むようにして姿を消し、そのあとには本来の狸小路八丁目が姿を現した。


「うあー。リアル怪奇現象……僕、もしかしなくても生きて帰れるかどうかの瀬戸際だったんですよね。怖かった……」

「まあな。家までは送ろう。近くなのか」

「じゃあお言葉に甘えます。歩いて十五分くらいです」


 そしてアパートの部屋の前で。


「ちょっと上がっていきません? コーヒーでも淹れますよ。あ、もしかして正体が蜘蛛だからコーヒーは飲めない、なんて落ちはないですよね」


 蜘蛛の仲間はカフェインに弱く、コーヒーなどを摂取すると巣をうまく作ることができなくなることが知られている。もっとも、人間の姿を取っている紅蜘蛛丸には人間に似せた代謝能力が備わっているから、そのような問題はないのだが。


「いや、そのようなことはないが」

「じゃあ決まり」


 ほとんど強引に、紅蜘蛛丸は部屋に連れ込まれた。そして言うまでもなく、女はコーヒーを飲ませることそれ自体を目的としてこんな時間に男を部屋に誘い込んだわけではない。しばしの時が過ぎて、女は後ろを向いている紅蜘蛛丸の背中を撫でていた。


「背中に広がる八筋の痣……『せちなとべにぐも』の話に出てくる、そのまんま。まさか、あなたが、本当に本物の、妖怪王紅蜘蛛丸だったんですか」

「そうだ。最初からそう言っている」

「僕の方は本当は百合じゃなくて、内田鹿子って言います」

「……そうか」

「また、ここに来てくれますか?」


 などとやっている、同じ頃、そろそろ朝を迎えようとする神威小路で、パウチコロムンは頭を抱えていた。まだ同じ店にいる。店を出て行こうとする紅蜘蛛丸を止めようとしたのだが、ぎろりとひと睨みされただけで竦み上がってしまって、それからずっと自棄喰いを続けている。紅蜘蛛丸が手を付けずに置いていった『塩キャラメルとピスタチオ』も彼女が食べた。


「『たっぷりフルーツのパフェ』、お代わりお持ちしました」


 獣耳の店員はそう言いつつ不安げである。パウチコロムン様、いいかげんになさらないとさすがにおなかこわしますよ? と言ってやった方がいいのだろうか、と迷い始めたところである。


「わたくしの神威小路……わたくしが拓き、わたくしが創った神威小路……妖怪たちが栄える、自由の楽土になるはずだったのに……うう……」


 モシレチクチク・コタネチクチクの名前など出したのは紅蜘蛛丸の気をあの場から逸らすためのただのハッタリであって、この街のあるじは彼女自身であった。仲間の数も実際のところ、たかが知れている。何しろ神威小路商店街はごく最近できたばかりなのである。


 紅蜘蛛丸が「また来る」と言ったのは、事実上、彼がこの神威小路を監視下に置いたということを意味している。それは事と次第によっては彼の庇護を受けられるということでもあるのだが、パウチコロムンの心境はそれでも複雑だった。


「うう……これからどうしよう……新しいガイドラインとか作んなきゃ……あー……」


 さらに、もう少し時を経て。


 彼岸花が目を覚ますと、紅蜘蛛丸は部屋から姿を消していた。まあいいか、ゆうべはいっぱいしてもらったし、と思いながら、Twitterの通知欄を確認する。昨夜の「せっくすなう」に対する、冷やかしやらなにやらのリプライがいっぱい来ていた。そして朝一番のツイート。


「起床らじ。ぐもーにん」


 彼女のアカウント名は『りこらじちゃん』と言い、語尾に「らじ」を付けて喋るのがチャームポイントとなっている。なお、彼岸花のことをラテン語の学名で「リコリス・ラジアータ」と呼ぶことに由来するものである。

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