【現代篇閑話】十四歳の彼岸花
彼岸花の兄、
幼い頃の彼岸花は座敷牢も同然の部屋に籠って、外に出ることが無かった。今は紅蜘蛛丸に手を引かせて近所を歩くくらいのことは時折しているのだが、その頃の彼女は、そんな程度のことすらごく稀にしか行っていなかったのである。その代わりに、彼岸花には酉次がいた。酉次には彼岸花がいた。
「ゆーちゃん、ゆーちゃん」
「なんだい、彼岸」
「へへーん。呼んでみただけ」
「そっか。困った子だな」
「えへへ」
彼岸花が幼かった頃はまだそれでもよかった。酉次が勉強を教え、調伏師としての手ほどきをし、食事の世話をし、そして話し相手までもを務める。それで特に問題はなかった。二人の間の空気が変わり始めたのは、彼岸花が思春期を迎えたあたりからである。
たまに紅蜘蛛丸が様子を見に行くと、彼岸花が物憂げな顔をして嘆息していることが増えた。
「にいさま」
と呟く。そこにいるのは紅蜘蛛丸である。あのな、お前たちは実の兄妹という間柄なのだから、だな……と言おうかとも思うが、紅蜘蛛丸はそこまで干渉する気になれなかった。また彼岸花の体質について、当時はまだ『触りさえしなければ大丈夫』と皆が認識していたために油断していたという面もあった。
また別の日、紅蜘蛛丸は彼岸花のいる部屋に通じる扉に手をかけようとして、ぴた、と手を止めた。室内から漂う僅かな女の匂いと、幽かに聴こえてきた吐息の色だけで、自慰をしているのだと分かった。同時に、中にいる彼岸花がこちらの気配に気づいた、ということも。
「あの……にいさま……?」
「ちがう。わたしだ。心配するな、この扉はしばらく開けぬ故、身支度を整えよ」
「なんだびっくりした……紅蜘蛛丸さまですか……」
この頃は、紅蜘蛛丸さま、と呼ばれていた。それを彼はたまに、懐かしく思い出すことがある。
そして、その日がやってきた。その日、二人は夜遅くまで二人で物語りをしていた。具体的に、その瞬間に何が起こったのかは、紅蜘蛛丸も知らない。異変に気付いて飛び込むと、酉次は床に倒れ、既に虫の息だった。
「触れなかった……確かに触れなかった、触れるまではしなかったのに、嫌、どうして、にいさま……にいさま……にい、さまっ……!」
泣き叫ぶ彼岸花の前で、紅蜘蛛丸もはやる鼓動を抑えつつ酉次の最期の言葉を聞こうとつとめた。酉次はこう呟いた。
「違うんだ……僕が……僕が、それを望んだんです……だから……どうか……べにぐも、まる、さま」
「ここにいる。大丈夫だ、聞いている」
「どうか……いもうとを……たのみ、ま……」
それが遺言だった。かろうじて起こされていた首ががっくりと前に落ちる。
「いやああああああああああああああああああっ!!」
こうして彼岸花は兄を失い、ひとりになった。
彼岸花はこのあと、自失の状態に陥った。紅蜘蛛丸がどう声をかけても、
「にいさま」
とだけ言ってほほ笑む。そんな状態がずっと続いた。食事から何から、紅蜘蛛丸が一切の世話をしなければならなかった。それだけの責任を感じてもいた。
そんな暮らしが半年あまりも続いた後、紅蜘蛛丸は彼岸花が自分を
「紅様」
と、呼ぶのを聞いた。
「おお、彼岸。わたしが分かるか。わたしは——」
と言おうとして。感じた。彼岸花から、凄まじい死の匂いが伝わってくるのを。そしてこのとき、酉次がどうして死んだのかがようやく初めて理解できた。
「紅様。あのね。あたし、口づけがしてみたい、ってにいさまに言ったんです」
「……うむ」
「紅蜘蛛丸様にしてもらえばいいんじゃないのか、ってにいさまが言うから」
「ああ」
「そうじゃない、あたしは兄さまとそれがしたいんですって、そこまで言ったら、にいさま、あたしに顔を近づけてきて。もう少しで触れる、っていうところで。でもすぐにちゃんと顔を離して。それだけだったのに。それだけだったのに——」
ぽつり、と涙の粒が落ちた。紅蜘蛛丸は彼岸花に顔を寄せ、唇を奪った。彼岸花は一瞬だけ身体を固くしたが、すぐに紅蜘蛛丸の動きに合わせ、自ら積極的に応じた。
彼岸花と紅蜘蛛丸の関係は、それ以来続いている。
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