刹千那

第一話

 胴体から足の先まで全身が深紅色をしているその蜘蛛は自分がどこで生まれ、どうして育ったのかをもうよく覚えていない。ただ、記憶のある限りずっと、自分と同じ姿をした自分以外の存在に出会ったことが一度もないということだけは知っていた。クモの仲間には産卵後に卵を守ったり子育てをしたりする種も実は少なくないのだが、彼には親の記憶というものもなかった。気付いたときには、獲物を狩り、喰らい、眠り、また狩る、それだけの暮らしだった。


 クモの寿命は通常は数年程度だが、ごく稀には何十年という長寿を保つものがある。その彼は平安時代にあって、そのとき既にまる九十九年の長寿を保っていた。


 山で彼が獲物を探していると、大きな生き物に遭遇した。あれはたしか、馬というものだ。彼はそう思った。獣道のようにしか見えない場所であったが、ひとの領域に踏み込んでしまっていたのであった。馬に踏み潰されそうになった彼は慌てて道から退いた。人を乗せたその馬は走り去っていったが、まもなくまた戻ってきた。また踏みつけられそうになって、彼はまた逃げる。馬というものにはうんざりだ。彼はそう思った。


 しかし馬が行って戻ってきた先から、良い匂いがした。彼が普段襲っている獲物の匂いとは別の種類の匂いだが、良い匂いだ、と彼は思った。


 道に沿って、もう馬に出くわさないようにと、こわごわ、進んでいく。少し開けた場所にひとが使う小屋があり、中にひとが倒れていた。


 蜘蛛が入り口から中を覗いていると、中にいる人間がこちらに気付いた。


「なんだ……ただの蜘蛛か……」


 口から鮮血がこぼれている。さっき馬に乗っていた人間に深手を負わされた、その人物は法師であった。


「蜘蛛よ。釈迦牟尼尊者しゃかむにそんじゃは極楽から蜘蛛の糸を降ろし、地獄の亡者を救うことがあると言う。お前さんも、釈迦の遣いであるかな」


 蜘蛛であるに過ぎない彼にはもちろん、その僧が何を言っているのかなど分からない。


「まあよい。かつて釈迦牟尼尊者はその転生の一度ひとたびにおいて、飢えた虎にその身を与えられたことがあったと聞く。この道摩どうま法師の生涯は浅ましいものではあったが、この末期には飢えたる蜘蛛にこの身を授け、かくのごとく山中に果てるとしようぞ」


 それだけ言って、僧は事切れた。もちろん紅蜘蛛丸には最後まで彼が何を言っているのかなど分からなかったわけだが、すごいごちそうが目の前に広がっている、ということはもちろん分かった。紅蜘蛛丸は嬉々として、僧の肉に齧り付いた。


 すると、不思議なことが起こった。喰らっても、喰らっても、飢えが満たされないのである。いくら大蜘蛛だとは言っても彼の大きさはその僧が手のひらの上に乗せて足りる程度のものであるのだが、僧の死体からやがて脚が一本無くなり、二本無くなりしても、まだ蜘蛛の飢えは満たされなかった。


 いったい何時間が過ぎたのか。あるいは、昼夜すらも忘れて喰らい続けていたのか。やがて気が付くと、骨だけになった僧侶の前に、長い髪と非常な長身をした、一人の青年の姿をした何者かがいた。


「あ……う……あ……?」


 これが、のちの妖怪王紅蜘蛛丸の誕生であった。と言って、名はまだ無く、その背に八筋の傷痕もまだ付いていないのではあるが。

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