鎌倉篇

第一話

 長く治天ちてんきみとして日ノ本ひのもとに君臨した後白河法皇が六条殿の仙洞御所にて崩ぜられた建久三年、すなわち1192年という年は平安という時代の終わりの節目であったが、それを認識した人間は当時どれくらい居たものであろうか。


 既に鎌倉に開かれていた幕府においてまもなく源頼朝に征夷大将軍の位が授けられ、その頼朝は七年後に死んだ。嫡男頼家よりいえが将軍職を継ぎ、しかしまもなく失脚して、執権北条ほうじょう氏により抹殺される。三代将軍に就任したのは頼家の同母弟源実朝さねとも、その母というのが、尼将軍として後世に名高い北条政子まさこである。


 この頃朝廷では後鳥羽天皇が上皇となり、院政を開始している。この帝は平家の滅亡とともに壇ノ浦に沈んだ安徳天皇の弟にあたる。


 安徳天皇は七歳で入水しているため妻も子もないのだが、実は入内の決まっている娘、つまり婚約者がひとりいた。その名を阿布都乃比あふとうないきくといって、無論その名から分かるように紅蜘蛛丸に仕える阿布都乃比の一族に生まれた少女である。安徳天皇よりは年が少し上で、家格は決して足りているとは言えなかったが、のちの時代とは違い当時の紅蜘蛛丸にはまだ妖怪王としての威勢が残っており、戦乱の時代のこととてその助力を当て込んで、このような縁組が行われたものであった。


 源平合戦のとき菊は真言寮に居たから安徳天皇とともに溺死する憂き目を見ることは無かったのだが、自分の未来の夫であるはずだった少年が死んだという知らせが届いたとき、彼女が受けた衝撃がどれほどのものだったのかは余人に計り知れることではなかった。


「そうですか。わちの、帝が、お亡くなりになられたのですか」


 彼女が発したものは狂気であったのか、それとももっと深刻で根深い何かであったのか。


「……ひひっ」


 そのときを境に、彼女の肉体は成長することを止めてしまった。つまり、ずっとその年齢の少女の姿のままになってしまったのである。まだこの時点では生身の人間ではあったはずなのだが、しかしもはや尋常の人間とは言えなかった。


「菊。このままでは阿布都乃比の家が絶えてしまう。そなたも新しい夫を求めよ。実は鎌倉の将軍家から、縁談が届いているのだが……」


 という紅蜘蛛丸に対して、菊はにべもなかった。


「嫌でございます。侍は嫌いでございます。家は、申丞しんすけに継がせればよろしゅうございましょう。わちは結婚などいたしませぬ。金輪際いたしませぬ」


 申丞は菊の弟である。かれらの両親は、両親とも壇ノ浦で死んだ。当時の当主だった父親は戦に参加する羽目になり、そして母親の方は安徳天皇とともに沈んだ大勢の女官たちの一人だったのである。つまり、阿布都乃比家に残された血筋はこの時点ではわずかにこの姉と弟を残すのみになっていた。この頃は菊が当主となっているのだが、先にその後のことまでを書いてしまえば、その申丞の直系の末裔に彼岸花がいる。


「いくらその姿がどうにも変わらないからといって……嫁の行き先や婿の来手がどこにもない、というものでもあるまいに」

「いいえ。嫌でございます」


 菊は強情な人間であった。その上、一つのことについては生涯変わらぬ妄念を抱えていた。


「なぜを申し上げれば、わちは紅蜘蛛のきみを好いておりますゆえ」

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