第七話
「信長? と言うと、尾張の?」
と言うのは紅蜘蛛丸である。
「おや、婿殿。信長公を御存知か」
「一度。会ったことがある。というか、訪ねてきた。真言寮を。もう十年近くも前になるが」
紅蜘蛛丸の言っていることは本当である。織田信長は若い頃に一度、上洛、つまり京都を訪れたことがある。桶狭間の戦いの前年のことで、まだ尾張の統一も果たしていない時期のことだったが、わずかばかりの手勢を引き連れてどうにか京都に辿り着き、当時の将軍足利義輝に対面したのだった。この時代には京の名家よりも地方の小大名クラスの方がよほど羽振りが効いたので、阿布都乃比家もそのとき織田家からの寄進を受け、それで紅蜘蛛丸が挨拶に出迎えることになった。
「さようであるか。吾輩のところにも来おったのだよ、当時。あの若造、尾張一国を差し出すから摂津を寄越せ、などと無茶を言いおってな、これはただ者ではないと、吾輩その頃からずっと目を付けておった。そうしたら、今のこれだ」
信長は尾張一国の統一を果たしたのち、長年の宿敵であった斎藤氏を打ち破って美濃をも支配下に収め、岐阜に本拠地を移した。ひとかどの戦国大名としてなかなかの躍進ぶりであるわけだが、これが今の現状である。そして義輝の弟の義昭という男を奉じ、再び上洛を果たそうとしている。今度の上洛は前回の、ほとんどお忍び同然での旅とはまったく別のものであった。要するに松永弾正と織田信長とで足利義昭を傀儡に立てて室町幕府を掌握し、天下に号令を発しようという計画だ。
実際実行するとなったら一言で言うほどに簡単な構想であろうはずはなく、信長の道中に領地を持っていた六角氏という大名がこれを妨害しようとしたのでひと戦争が繰り広げられることになったが、その過程は紅蜘蛛丸にはさほど興味のない問題であったので省くとしよう。
それより問題だったのは、信長が松永久秀に自らへの臣従を求め、その証として近い肉親を人質に出すようにと要求してきたことである。
「困ったことになったのだが、婿殿」
弾正はまた真言寮にやってきて、相談をもちかけた。
「そもそも吾輩には、せがれが一人しかおらぬ」
ちなみに弾正はこの時点で既に六十一歳の老人である。『黄素妙論』にもその年ともなったらもう控えるようにと書かれているくらいだし、遺憾ながらこの先これ以上の子宝に恵まれる可能性は期待しがたかった。
「娘は何人かいるのだが、みな遠くへ嫁に行っているし、連れ戻せるような事情にはない。櫻以外はな」
「……櫻どのを、信長の人質にして岐阜に預けよと?」
「そうさせてもらえると助かるのだが。実は、これは信長公の意思でもあるのだ」
そう言ってニヤリと笑う。
「……あい分かった。委細承知した」
ぎり、と紅蜘蛛丸は奥歯をかみしめた。紅蜘蛛丸は基本的に、平安の昔からずっと、人間の権力者にはなるべく逆らわないようにしている。ただ平和な時代ならばよいが、今のような平和でない時代には、そもそも誰が権力者であるのかを嗅ぎ分ける嗅覚を持たなければならぬ。今までの京都では松永久秀がそうであったが、その久秀が次は信長の時代だとしているからには、信長の時代が来るのであろう。そう考えざるを得ない。だがそれにしても、自分が数年来妻同然に添うていた女を人質に取られるというのは、彼にとっても屈辱であった。これは信長から松永弾正への人質要求であると同時に久秀から自分への人質要求でもあり、また同時に信長から自分への臣属の要請でもあるのだろうと。そう思った。だから悔しい。
しかし。
「寂しゅうございます」
と言って名残を惜しむ櫻を岐阜に送り出した後、半月と経たぬうちに信長は上洛を果たし、京都の
「麻呂が第十五代将軍、足利義昭であるのじゃ。よろしく頼むぞよ」
「ははっ。恐悦至極に存じまする」
適当な御愛想を言う紅蜘蛛丸である。さて、それより問題なのは、信長が紅蜘蛛丸にとった態度であった。
「わしが信長だ。さて、次は誰であったかな」
「信長公。お久しゅうございます。紅蜘蛛丸でございます」
「ああ。紅蜘蛛の、そなたであったか」
信長は冷たい目で紅蜘蛛丸を見る。あまり、深い関心を払っている様子はなかった。それどころか、彼が紅蜘蛛丸にしたのは、こんな話だった。
「数年前のことだが。わしの領内に、人を喰う
「は」
「わしは近在の百姓を集めて工事をさせ、池の水を底まで抜いた。わずかに残った水たまりに、脇差を抜いて潜ってみたが。結局、大蛇などというものは居りはしなかった」
そこで信長は、自分が持っていた扇子を自分の首に当てた。
「少なくとも、このわしに逆らう大蛇はの。紅蜘蛛の、この言葉の意味は分かるかな?」
「……はっ」
この世に生を受け五百余年、こんな恐ろしい男に出食わすのは久しぶりだ、と紅蜘蛛丸は肝を冷やした。逆らわない方が良さそうだ。松永弾正も怖いが、この男も怖い。そう思った。松永弾正とは違い信長は妖怪の兵力を自分の麾下に収めようなどということは企まなかったが、そんなところが、かえって怖かった。要するに、彼は
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