第十二話

「……わたしが一人で行くべきであったか」


 紅蜘蛛丸は歯ぎしりをする。紅蜘蛛丸は不死だが、それは彼ひとりだけの話であって、真言寮に務めているものの多くはただの人間であった。人の儚さをいまさら知らぬ紅蜘蛛丸ではないが、それにしても今の彼は部下を使い捨ての駒にして平気な顔をしていられるほど非情な性質の持ち主でもない。


 次の夜、紅蜘蛛丸は三条大橋のあたりを検分しに行った。ぱっと見た限り、人間の目に分かるような異状はないのだが、幽かに冥府の匂いが漂っているのが紅蜘蛛丸の感覚では捉えられる。おそらくはここに死者の世界への道が開かれたのだろうと思われるが、現状では固く閉ざされており、ここから向こう側に行くことはできない。


「なれば、行くか。‟彼方の地”に」


 彼方の地というのはこの世界と冥府の間にある異界の一つである。真言寮の近くに六道珍皇寺という寺があり、臨済宗建仁寺派の寺院であるのだが、その庭に冥土通いの井戸と呼ばれる枯れ井戸がある。かつて平安京の時代、小野篁おののたかむらという公家がいた。この人物は朝廷に奉職すると同時に閻魔大王にも仕えており、夜ごとこの井戸を通って冥界に行き、そこで職務を執っていたという。


 もちろん、普通の人間がただこの井戸に飛び込んでもそれで簡単に冥界に行けるというほど単純な仕組みになってはいないが、紅蜘蛛丸はその井戸の先にある‟彼方の地”という異界に、限定的な許可のもとで出入りすることができた。それを差配しているのはその小野篁という人物、その人である。その夜、月が天頂に差したその一瞬を狙って、紅蜘蛛丸は六道珍皇寺のその井戸に飛び込んだ。


「ここへ来るのは久しぶりだ」


 井戸の先は地下の世界だが、周辺の土が燐光を発しており、町のような装いを取っている。この時代の人間の世界にはそんな概念はないが、言うなればそれは地下街であった。


「茶を一杯所望する」

「あい」


 死者の世界だが、街角に茶店がある。支払いに用いるものは魂貨と呼ばれる、自分の魂を百等分して貨幣に変えたものである。紅蜘蛛丸はいちおう生者の世界の住人であるので、この町の奥に進むためには黄泉戸喫よもつへぐいをしなければならない。言うなれば精進潔斎というか洗礼というか、そのようなものである。


 町を散策する。遊びに来たわけではなく、目的地はあるのだが、ある程度この空間に肌を慣らしてからでないと、目当ての人物は会ってもくれないのであった。茶店のほかに蕎麦屋や団子屋などもある。蕎麦を食う気分ではなかったが、もう少し黄泉戸喫が必要なので、餡団子を買った。数枚の魂貨が失われるが、紅蜘蛛丸はここで魂貨を得る手段は確保しているのでそのあたりは問題なかった。


 さて、‟彼方の地”は全体の構造としてはまっすぐな直線状になっている。やや太めの隧道トンネルのような感じ、と言ってもいいかもしれない。その一番奥には冥界に通じる門がある。ここは地上で死んだ後、四十九日を迎える前の死者が、生前と同じような暮らしをしつつ向こうへ行く時を待つための場所でもあるのである。


 その門の前には屋敷が立てられており、そこにその人物がいる。ようやくいい頃合いになったので、紅蜘蛛丸はそこを訪ねた。


「たのもう。紅蜘蛛丸である。小野篁どの、いらっしゃるか」


 すると、奥から返事があった。心底嫌そうな声であった。


「そりゃ居るよ。また来やがったか、蜘蛛野郎」

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