第八話
そして数日後。正月の賑わいもようやく落ち着いた真言寮に、旅装を纏った竜胆が駆け込んできた。
「紅さん! 紅さん! いらっしゃいますか!!」
紅蜘蛛丸は、嫌な予感はしていたのだと心中に思いながら竜胆の言葉を聞く。
「大変なんです! 山南さんが、新撰組を抜けるって書き置きを残して、突然居なくなってしまって……!」
紅蜘蛛丸は急ぎ自分も旅装束を整え、竜胆に同行することになった。二人連れである。
「書置きには、理由は分かりませんけど江戸へ向かうとありました。つまり、東海道です」
ふむ、と紅蜘蛛丸は思った。東海道なら、部下が見つけた陰陽童子の隠れ家の一つがある大津宿は途上である。まだ昼前であるので、急げば日が暮れるくらいには大津に着けるであろう。
「……」
同中、竜胆の口数は少なかった。従って紅蜘蛛丸もあえて口を開かない。やがて、大津に着いた。
「宿を探そう。今日はもうこれ以上は進めまいし、それに」
それ以上は言うまでもない。ちなみにこの時代、よほどの事情でもない限りは一般の旅人が夜間に街道を歩いたりはしない。夜中に街道をゆくのは早飛脚など、よほど特別な者だけである。
「ええ……」
大津は東海道五十三次の中でも最大の
「おや、沖田君。こんなところで奇遇ではないですか」
「山南さん……」
竜胆は顔面蒼白であった。よく知られているように、新撰組では脱走は死罪と定められているのである。
「奇遇もへったくれもありますか。やまなみ、さん……」
竜胆はそこで絶句した。山南が刀に手をかけたからである。ほぼ同時に、竜胆も抜刀している。しかし、構えたまま動かない。
「やめてください! どうか……いっそ、そのまま逃げて……!」
竜胆の表情は悲痛で、その言葉はほとんど絶叫だった。
「それはできない相談だなあ。……ひひっ」
「……やまなみ、さん……?」
改めてその表情に浮かぶのは、狼狽と、わずかばかりの怯え。
「自分が脱走すれば、新撰組の中から君ひとりを釣り上げられるだろうと。そういう計略ではあったんだけど」
新撰組の幹部の中で、山南と最も親しかったのは竜胆である。従って竜胆が相手であれば山南は素直に捕縛されるであろうと、そう考えてあえて竜胆ひとりに追っ手を任せたのは新撰組の副長、土方歳三であった。
「べにぐものきみが、ごいっしょとは。おもってもみなかった」
山南の背後から、小柄な童が姿を現した。陰陽童子である。
「……貴様か」
今まで黙っていた紅蜘蛛丸が声を発したのは、陰陽童子の方に向かってである。
「べにぐものきみ。ぶさたにございます」
「お互い……
思わせぶりな会話をする二人のことを気にしている余裕は今の竜胆にはなかった。
「紅さん。すみません、山南さんには手を出さないでもらえませんか。――わたしひとりで、けりをつけます」
「心得た。陰陽童子はわたしが抑える」
「そはうれしやな、べにぐものきみ。なれば、しあいましょうぞ。……んいっ!?」
上空から突然現れた幾筋もの蜘蛛の糸が陰陽童子に絡みつき、そして宙に釣り上げる。そして、紅蜘蛛丸自身は大きく跳躍し、陰陽童子に向かって……というところまではかろうじて竜胆も把握していたが、やがて視界から二人が消えたので、意識からも外に追いやった。
山南敬助は北辰一刀流免許皆伝の使い手である。竜胆がいかに新撰組最強の名をほしいままにしていると言っても、向かい合って油断の許される相手ではなかった。
「行きますよ、沖田君」
正中からの鋭い踏み込み。北辰一刀流らしい、しなやかな太刀筋だった。刹那、剣士としての竜胆が女としての竜胆を踏み越える。一瞬だった。一瞬のうちに、平晴眼の構えから叩き込まれる
だが。
心臓を潰されてなお、山南は死ななかった。いや、或いはもうとっくに死んでいたということなのか。瞳が色を失い、しかし、そのままで剣が振るわれる。
「畜生ォォォッ!」
竜胆は小手あり一本、刀を持っている腕を斬りつける。もう一撃。刀が落ちた。だが、それでも、山南は向かってこようとした。口中からは血が溢れ、もはや完全に動く死体そのものである。
「セッカク……オマエダケヲオビキ寄セテ、仕留メル、計画、ダッタ、ノニ」
「お願いです、もう……もう、これ以上……!」
竜胆は剣を振るい続けた。こんなときでさえ、あれほどまでに恋い慕った相手を斬った今でさえ、剣士としての冷静さを残している自分の心を嫌だと思う自分と、そして剣客としての昂揚を自ら愉しんでいる自分とが、そこにいた。
「畜生、畜生……山南さんは、そんなんじゃない……そんなんじゃないのに……!」
初めて試衛館にやってきたときの山南敬助のことを思い出す。そのとき、彼は道場破りであった。まあ、これは近藤さんに勝てはしないな、と正直なところ思った。実際近藤勇と立ち会って敗れ、その門人に加わわった。
当時の竜胆は性別を隠してはいなかった。年の違う山南のことを彼女は兄のように慕い、そして向こうも、竜胆が妹分であるかのように気安い付き合いをしてくれた。
一回だけ、想いを打ち明けたことがあった。新撰組が結成する直前、試衛館を旅立ったときのことだ。実は故郷に残した妻子がいる、と打ち明けられたのはそのときである。それで話は終わりで、それっきりだった。
だけど、好きだった。ずっとずっと、竜胆は山南敬助のことが好きだった。
そして今、ようやく、山南敬助は動かなくなり、死者の安息を得た。五体をばらばらに寸断して、どうにか動くことのないようにしたのである。首を刎ねたあと、まだ瞼が開くから両目を潰した。落ちた手の指が動くので、その一本一本を切り離さなければならなかった。それを、すべて、竜胆がやった。
竜胆は夜空を見上げた。すっかり日は没していた。ああ、山南さんを壬生に連れて帰らなきゃ。ぼんやりと、そのように思った。
やがて、みんな建物に隠れて様子を伺っていた宿場の人々が外に出てきたので、竜胆はこの亡骸を荼毘に伏してくれないかと頼んだ。だって、山南さんを壬生に連れて帰らなきゃならないから。
「……終わったか」
いつの間にか紅蜘蛛丸が戻ってきていた。
「はい。すべて終わりました。……そちらは」
紅蜘蛛丸ははあ、と嘆息した。
「すまん、逃げられてしまった。だいぶ深手を負わせてやったから、当面しばらくは悪さは出来んと思うが……何しろ、お互い不死の身で、お互いに死なんのでな……決着のつけようがないのだ」
「え? そうなんですか?」
「ん? そういえば教えてなかったか」
「教えてなかったですよ」
それから風呂を借り、軽く食事をして、宿に戻った。部屋は別々に取っていたのだが、夜半に紅蜘蛛丸が部屋で考え事をしていると、竜胆が入ってきた。
「どうした? 眠れないのか」
「ええ。紅さんも?」
「これも教えていなかったかもしれないが、わたしは眠ることがない」
「教えてなかったですね」
そんなことはどうでもいい、とばかりに、竜胆はぽす、と自分のあたまを紅蜘蛛丸の背中に預けた。
「ねえ。紅さん」
「なんだ」
「今から、わたくしを女にしてくださいませんか?」
紅蜘蛛丸は竜胆の目を見た。深い、透き通るような眼をしていた。何度も、自分はこんな目をした女たちを見てきた。そう、紅蜘蛛丸は思った。
「ああ。来い」
竜胆は紅蜘蛛丸にその身を委ねた。さりとてその心は、どうだったろうか。
「長い、髪……くすぐったいですよ……紅さん……」
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