第六話
京都はにわかに湧いていた。尼将軍北条政子が上洛したからであった。彼女は前にも一回京都に来たことがあるのだが、そのときは将軍だった夫頼朝に同行したのであって、しかし今回は彼女が幕府代表としてやってきた立場である。表向きの理由は
なぜ政子は六十二歳の老身をおしてわざわざ上洛を決行したか。まあもちろん色々な用事があったのではあるが、その中でも最大の理由は、将軍実朝に子ができないことに由来した。まだ二十七歳なので、この先に期待が持てないという年でもなかったのだが、しかし実朝は側室を迎えることを頑なに拒絶した。またそれは後鳥羽上皇の意思でもあった。実朝と自分の係累との間に子を儲けてそれを四代将軍にすることが肝要なのであって、他のどこの馬の骨とも知らぬ武家の女との間に嗣子を作られても困るのである。
そこでこのとき、朝廷と幕府の間に密約が結ばれた。後鳥羽上皇の息子のひとりを、四代将軍として幕府に迎える、というものであった。幕府側でこれを主導したのはもちろん政子であり、朝廷側では後鳥羽上皇の大御心が介在していた。だが、政子は後鳥羽上皇と直接の会見はしなかった。
「尼君。御意である。後鳥羽上皇が、畏れ多くも謁見をお許しになるとのことだ」
「いえ。この婆は田舎の老いぼれに過ぎませぬ故、玉顔を拝するなどは有ってはならぬことと存じますれば、そのようなことは遠慮いたします」
これが本当に謙遜の意思から発せられた言葉なのか、それとも含むところあっての態度だったのかは、本人しか知らない。結局、事実上朝廷と幕府をそれぞれ代表していた二人の対面が果たされることはなかった。だがいずれにせよ、政子は京に二カ月も滞在して諸事に忙殺された。朝廷からの使者以外にもいろいろな相手と対面をしたわけだが、その中に、阿布都乃比の当主を名乗る者がいた。
「阿布都乃比……? ああ、妖怪退治を生業にするという、京の調伏師の一族……。そのような者たちが、はて、この婆に何の用であろうか」
朝廷とも縁深い相手だということで、尼将軍もただ会うだけのことを断ったりはしない。目の前に現れたのは、しかし童子としか見えない姿の娘であった。
「……そなたが当主なのか? 阿布都乃比なる家の」
「はい。わちの名は、菊と申しまする。この姿については、生まれつきで御座いますれば。お気になされぬよう」
「あい分かった。して、この婆に何の御用件であろうか」
「頼家どののお子息について」
「何を申すのか。確かに頼家には男児がおったが、既に死んでおる。和田合戦に巻き込まれての」
紅蜘蛛丸が斬った和田残党三人の中の一人が公暁であるということにされており、鎌倉方ではそのような認識になっていた。
「実は、生きておられたのです。……わが家が匿っております」
「なんと」
尼将軍は驚愕した。
「この婆の孫が、まだ生きておったと。そは嬉しやな」
「お引き取りになりますか?」
「当然であろう。鶴岡八幡宮に入れ、手厚く遇することとしようぞ」
「それは重畳。それからもう一つ」
「まだ何かあるのか」
「これはまだ、後鳥羽の院より内々のお話なのですが。実は、実朝公に右大臣の位を授けたい、と」
「それは……しかし」
源頼朝は生前に朝廷から大臣の位を授けられたことがなかった。つまり、実朝はこれで若干二十代にして、父の生涯の位階を越えてしまうことになる。
「いいではありませんか。おめでたいことが続くのですから」
「……そうか。まあ、そうだな」
政子は認識していないが、この時代の呪術に、官打ちという概念があった。身分不相応な位に就くと不幸を呼ぶ、そういう内容の呪いである。菊はただの調伏師ではなく呪術を専門とする呪い師でもあったから、その手法には通暁していた。地獄に落としてやる、糞婆が、と、菊は口の中だけで呟く。無論、政子はじめ誰も聞いてはいない。
政子は数々の外交交渉を終えて、鎌倉に帰っていった。それから数ヶ月が経過し、年が明けて建保七年、1219年の晩冬。将軍実朝は、右大臣拝賀の儀式を執り行うため、鶴岡八幡宮に参拝した。
と、たまたま周囲の護衛が気を逸らした隙に、実朝に近付いた者があった。僧形をしていた。
「お、お、お、おれは」
公暁であった。
「おやのかたきをこうしてころすのだ」
刀が翻り、血飛沫が舞った。
「ひひっ」
公暁は自身の叔父の首を斬り、それを抱えて逃走した。源氏将軍三代、右大臣実朝、享年二十八歳であった。
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