第十一話
金ヶ崎では壮絶な激闘が始まっていた。ちなみに家康と秀吉と光秀の三人が揃い踏みして戦ったのは彼らのそれぞれの生涯でこの一度きりである。総崩れになる危険は何度もあったが、特に秀吉の采配の功績が大きく、織田軍はよく持ち堪えながら陣を引いていった。しかし、紅蜘蛛丸にとって肝心なことはそれではなかった。
「陰陽童子。大事な話があるのだが」
「な、なんですかべにぐものきみ。いま、へいをあやつるのにいそがしいのですが」
「どうしても今でなければならない話だ。ちょっと付いてきてほしい」
「し、しかたがありませんね。じゃあ」
陰陽童子が操っていた骸骨たちは動きを止めた。近くで戦っている織田軍の人間たちが、落胆のような安堵のような複雑な表情を見せる。
さて、近くにちょうど茂った森があったので、紅蜘蛛丸は陰陽童子をそこに誘い込んだ。
「な、なんでしょう。よもや。よもや」
「どのよもやか知らんが。すまんな、こういうことだ」
紅蜘蛛丸の片手の平、掌中から幾筋もの蜘蛛の糸が放たれ、一瞬のうちに陰陽童子を絡め取り、縛り上げる。
「べ、べにぐものきみ!? こ、こはいったい!」
陰陽童子の声色にあるのは驚愕であって、敵意はかけらもなかった。それが、紅蜘蛛丸には悲しかった。
「お前を殺せと命じられたのだ」
「だれからですか! だれがそんなことを!」
「……信長公と……松永弾正だ」
「そんな!!」
紅蜘蛛丸は嘘をついた。信長は本当だが、弾正はこの一件については何も知らない。
「わけを! せめて、わけをおきかせください!」
陰陽童子が叫ぶ。紅蜘蛛丸は一瞬迷ったが、教えることにした。そして、このとき陰陽童子にこれを話してしまったことを、のちに長く後悔することになる。
「弾正の娘、櫻。知っていると思うが、あれをな。お前を始末せねば、殺すと。そう言われたのだ」
「そんな……そのおんなのために、そんなおんなのために、あなたは、わちを、このわちを……!」
「……すまない。だが、人ならぬ身になり果てたお前にかかった呪いを、いずれ解いてやりたいと思っていたのもまた事実。せめてもの情けだ。一息で済ませてやる」
紅蜘蛛丸は大きな手のひらで陰陽童子の頭を掴み。そして、腐った果実のように握り潰した。
「ぴぎゃっ」
紅蜘蛛丸はこの時点で、知らなかった。知っていれば対処のしようはあった。だが、知らなかったのだった。陰陽童子がただ人の身から不老長寿の妖怪になっただけではなく、自分に匹敵するほどの不死を得ていたのだ、ということを。
やがて織田軍は金ヶ崎に血路を開くことに成功し、紅蜘蛛丸もそれについて京まで戻った。
頭を潰された陰陽童子が、その後蘇るまでには数日がかかった。落ち武者狩りの農民たちが数人やってきて、倒れている陰陽童子に気付いた。
「おい、見ろよ。なんか、変なのが混じってるぞ。侍じゃなさそうだ……がっ!!」
陰陽童子は意識のないまま、半分崩れたままの口でその農民に齧り付き、そして鋭い爪で喉笛を切り裂いた。何人かいた仲間は、驚いて逃げていったようだった。それを追ったりはしない。にんげんを喰わらねば。にんげんを喰わらねば。その思いだけでいっぱいだった。
「ひひっ」
陰陽童子が人を喰らったのは、このときが最初であった。そして、彼女が完全なる狂気の怪物と化したのも、これ以降のことである。
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