第十話

 陰陽童子を始末しろ、という信長からの要求はそれだけでは終わらなかった。それについて久秀に対しては秘密裏にことを行い、自分の命であることを悟られるな、というのである。それでも紅蜘蛛丸は


「委細承知してございます」


 と答えざるを得ない。自分は死なないが、自分でない人間は死ぬ。それを重々分かってはいても、今は櫻と過ごす時間が名残惜しかった。もちろん今も昔も刹千那がもっとも深く彼の心を占めていることに変わりはないのだが、それはそれ、これはこれというものなのであった。


 さて、松永久秀が普請を務めた足利義昭のための二条城は明けて元亀元年、つまり1570年の春に落成した。その祝賀として、能の舞台が開かれることになり、紅蜘蛛丸も久秀からその席に招かれた。その場には陰陽童子の姿がないのを確かめて、紅蜘蛛丸は話を切り出した。


「これより予定されている、信長公の朝倉あさくら攻めの件ですが。わたしも同行させていただきたい。陣僧として、単身で」


 朝倉とは越前の大名、朝倉義景よしかげのことである。信長と敵対しており、信長自ら軍を率いての、その討伐が予定されていた。なお陣僧とは、この時代にはよくいた、戦争に際して現地で戦死者の弔いをするなどの役割を担う僧侶のことを言う。


「どういう風の吹き回しだ、婿殿。貴殿は破戒僧であろうが。まあ、別に構いはしないが」


 これより始まる戦、信長による第一次越前攻略戦を通称、金ヶ崎かねがさきの戦いという。織田軍は同盟者の徳川家康の軍勢を援軍に引き連れて強勢であり、朝倉方の城である手筒山、金ヶ崎の二城を相次いで陥落させた。


 ここまでの快進撃に気をよくした信長は、当然、そのまま朝倉氏の本拠地が置かれている一乗谷いちじょうだにまで兵を進める、そのつもりだったのだが。


「急報! 急報! 浅井長政あさいながまさ殿、御謀反! 浅井長政殿、御謀反に御座います!」


 浅井長政は戦国大名浅井家の当主にして近江の国主で、信長の妹のお市を妻に迎えて妹婿となっており、信長にとってもっとも強力な同盟者のひとりであった。そのはずであった。信長ははじめ、この知らせを信じることができなかった。


「そんな馬鹿なことがあるものか。朝倉方の間諜による偽計ではないか」


 という。しかし、その信長に直諫したのは弾正であった。


「いや、裏切っておりますよ。吾輩、分かります。そんなものです。戦国の世の倣いにございますれば」

「なれば、如何にする」

「このまま軍を率いて北に進めば、あっという間に朝倉と浅井の両軍に挟まれます。そうなったら全滅は間違いない。つまり。三十六計逃げるにしかず、逃げましょう」

「どう逃げる。ここから京までは遠い。いずれの道も険しかろう」

「幸い、ここから京に通じる道筋の一つ、近江の朽木谷を支配する領主は吾輩の古い知人。そこに向かいましょう。全速力で。……さもないと、吾輩も死んでしまいます故。お伴いたしまする」

「承知である」


 と、言うや否や信長は馬に鞭を当てた。久秀もそれを追いかけるが、あまりに急な話で、信長に付いていくことのできた兵はわずかに十数騎。このとき、金ヶ崎にいた総兵力、織田と徳川両軍合わせて約三万人であるが、そのほぼ全軍が、信長によって置いてきぼりを喰らったのである。


 長年来の信長の友人で、最大の同盟者であるはずの徳川家康も置いて行かれていた。他に名高いところでは、羽柴秀吉と明智光秀の二人も取り残された側にいた。退却というものは大将さえ生かせれば勝利に等しいと言われるくらいで、確かに信長の首がもっとも大事なのは確かなのだが、もちろん実際に実地に殿軍しんがりを体験する立場の者たちにとってはたまったことではないのもまた道理である。


 よってここに世に名高い修羅の撤退戦、通称「金ヶ崎の退ぐち」が始まるわけであるが。


「べっ、べにぐものきみ。これは、なんということでしょう。おいていかれてしまったのですよね? わちも、べにぐものきみも」


 松永久秀は逃げ去り際、自分が連れてきた紅蜘蛛丸に対して一言もなかった。陰陽童子に対してもそうであった。松永久秀のもとから陰陽童子が離れる機をずっと伺っていた紅蜘蛛丸にとって、これは絶好のチャンスの到来であった。

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