第十二話

 久秀を連れて命からがら京都まで戻ってきた信長を、待っていたものはしかし凶報であった。京に帰りつくその数日前、石山本願寺という巨大な軍事力を持つ大宗教勢力の指導者顕如けんにょが、織田信長討伐の旗を掲げて挙兵していたのである。


 遅れて京都に戻ってきた紅蜘蛛丸が謁見を求めると、それは認められた。認められたが、だいぶ待たされた。ようやく自分の番が来たので、通り一遍の挨拶をする。


「陰陽童子、確かに討ち果たしまして御座います」

「で、あるか」


 心ここにあらず、と言った感じの返事であった。越前に朝倉氏、近江に浅井氏、大坂に本願寺、その他もろもろ、四方八方に敵を抱えて信長は苦境に陥っていた。妖怪始末のごとき小事に心を煩わせてはいられないのであった。


「褒美として例の娘は返してやろう。弾正の忠義は分かったから、もう人質も要るまいしな」


 その調略によって朽木越えの退却を成功に導いたことで、信長の中での久秀の評価は随分と高まっていた。


「あの娘が可愛いのだろう? そちとの関係がなければ、これをせがれの信忠のぶただの嫁にでもどうかと、帰蝶も申しておったのだがな」

「それは、できない相談というもの。ではこれにて御免」


 で、結局櫻は真言寮に戻ってきた。


「紅蜘蛛様! やっと帰ってこれました!」

「よかった。では、早速――」


 紅蜘蛛丸ははやる気持ちを抑えられなかったので、人に命じて布団を既に敷かせていた。


「早速、わたくしがいない間に紅蜘蛛様が他の女を連れ込んでいなかったかどうか、聞き込みを始めますね!」

「えっ」


 結果、判明した数は「五名」であった。紅蜘蛛丸はそれから五日の晩が過ぎるまで、櫻から口をきいてもらえなかった。そして五日後。


「紅蜘蛛様。そろそろ、いいですよ。そんな不貞腐れた顔でそんな本を読んでらっしゃらないで、こちらにおいでくださいな」

「……ああ。櫻。帰ってきてくれて、良かった」

「はい。わたくしも、ほんに嬉しゅうございます……」


 ふたりの蜜月の日々は、しかしそう長くもなく再び破られた。ある日、櫻が実家、というか父である久秀のいる信貴山城を訪れていたときのことであるが。


 突如として、久秀が信長に対する謀反を宣言したのである。


 その頃、信長は更なる苦境に陥っていた。東にあって長く織田家と同盟を結んでいた甲斐と信濃の支配者武田信玄が、反信長の兵を挙げたのだ。ほとんど全周囲を敵に囲まれたその窮状は、まさに『信長包囲網』と呼ぶにふさわしいものであった。


「婿殿にはすまんがな」


 と、呼び出されて信貴山城を訪れた紅蜘蛛丸に久秀は言う。


「義昭公の密命を受け、反信長勢力をここまで糾合したのは、実はこの吾輩なのだよ」


 いい加減付き合いが長い紅蜘蛛丸でも初めて見る、闇を背負ったような凶相を浮かべて、松永弾正久秀はそう言った。足利義昭という人物は単に傀儡として将軍職にあるだけの身には飽き足らず、政務の実権を求めた末に信長との対立を深めていた。そして今回、ついに明白な敵対状態へと突入したのであった。


「よって婿殿。今度こそその力、吾輩のために貸してもらおう」

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