第三話
菊の弟
経高はもともと近江の出身だが、頼朝が少年の頃に伊豆に流された当時からの臣下のひとりであり、源平合戦にも功があって、淡路、阿波、土佐三ヶ国の守護に任じられていた。後世の基準で言えば大大名と呼ぶべき勢力であるが、この頃はまだ、幕府と地方領主とそして朝廷との関係はそう簡単なものではない。頼朝が死んだとき、万一天下にまた混乱があってはいけないと考えた経高は、自分の領地から大軍を呼び寄せて京都を囲ませた。本人としては単に治安慰撫の為であったのだが、これに激怒したのが、京にあって自らを治天の君と任じる後鳥羽上皇であった。鎌倉幕府の権威が及んでいる東国のことはともかくとして、西国の軍事統帥権は朝廷のものだというのが当時の建前だったからである。
後鳥羽天皇は経高の領地のうち二ヶ国の没収を命じた。しかし、これに待ったをかけたのが鎌倉幕府であった。経高は鎌倉に下り、幕府に事情を訴えた。申丞もこれに同行した。このときもやはり、泰時が執権北条氏を代表して判断を下した。申丞はたまたま、その場に同席を許され、その言葉を聞くことになった。
「経高がかつて与えられた三ヶ国はすべて彼が彼自身の武功によって得た恩賞なのであるから、その罪が許されるのであればすべてを安堵されるべきもの。従って、ことごとくを召し上げるか、ことごとくを返すか、いずれかでなければならない。彼ほどの勇将に恨みを残され、後に万一のことがあっては取り返しが付きますまい」
その堂々たる態度と演説を見て、申丞はその後泰時にすっかり心酔するようになった。結局、幕府の要求に屈した上皇は経高から取り上げた二ヶ国を返還した。
「経高様。領国のことごとくをお返しいただいたこと、誠におめでたき事、お祝いを申し上げさせていただきます。それもこれも、鎌倉の泰時さまのおかげでございますね」
と、言うのは申丞なのだが。
「ん? そうだな、まあめでたいことだ。だが、領地をお返しくださったのは後鳥羽の院であらせられるからな。拙者、これからは心を入れ替え、よく勤王の志を持って朝廷に仕えようと考える次第である」
「さようでございますか」
経高の言葉に嘘はなかった。それから数年後、近江の八王子山というところに比叡山の悪僧が籠って騒動を起こすという事件があったのだが、後鳥羽院の勅命を受けてその討伐に当たったのは経高が再び領国から呼び寄せた軍勢であった。戦の采配よろしく、経高は勝利を飾り、僧徒たちを追い散らした。なお、申丞がこのとき初陣を飾っている。
「紅蜘蛛丸様、姉上。ただいま帰りました。見事に初陣の勤めを果たしまして、後鳥羽の院から御褒美として刀を頂いて参りました」
「まあ。これは、則宗の菊一文字ではありませんか。天皇家の象徴たる菊の刀を御下賜されるなど、阿布都乃比の一族にとってなんたる名誉でありましょう。わちは、弟であるあなたが誇らしいですよ」
後鳥羽上皇は京都に生まれた京都の貴人であるから和歌や蹴鞠をよくしたが、それだけではなく文武の両道に優れており、刀を愛好して日本刀の生産を奨励したりもしていた。則宗はそうして後鳥羽院が京都に招聘した刀鍛冶の一人である。
この頃の天皇家は経済的にもまだ威勢を誇っていたので、後鳥羽上皇は
とある日のことである。後鳥羽院はやはり船を仕立て、水無瀬に向かっていた。このとき紅蜘蛛丸と菊も同行を命じられ、後鳥羽院と同じ船の上にいた。そこに、船を漕ぎ寄せて来る者があった。旗が掲げられていて、「大盗賊
近侍の者たちは驚き呆れ、船を反転させようとした。ところが、そこで前に進み出たのが後鳥羽上皇である。
「控えおろう。朕を何者と心得るか」
と言って、後鳥羽院はなんと漕ぎ手から櫂を奪い、自ら船を漕ぎ始めた。
「素晴らしいですわ、後鳥羽の君。わちは、陛下にお仕えしていることを誇らしゅう思いまする」
後鳥羽院の操る船は交野八郎の船に衝突した。船の上では数人の盗賊が恐懼していた。異様なまでに怯えている。菊がひそかに、受けたものが恐怖の感情に襲われる呪術を用いたのである。
「
「はっ」
紅蜘蛛丸が掌中から蜘蛛の糸を発し、盗賊たちを捕らえた。交野八郎とその配下たちはそのまま水無瀬離宮まで連れていかれ、尋問を受けた。その言葉に言う。
「わしは腕に覚えはあるから、侍くれぇなら怖くねぇ、やっつけてやると思ってた。だけど船の先頭に立ってる貴人の方が、まるで扇でも振るみてえにして大きな櫂を操るのを見て、こりゃいけねえ、勝ち目がねえとおったまげちまった」
「とのことですが。殺しますか?」
院は紅蜘蛛丸に答えた。
「いや。見どころのありそうな者ではないか。朕のもとで召し抱えようぞ」
交野八郎は仰天し、地に顔を擦り付けて平伏した。
「ははーっ。
こうして交野八郎の一党は、後鳥羽上皇に仕えることになった。
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