第四話
刹千那姫は蜘蛛を手のひらで掬い上げ、文台の上に乗せた。文台には書きかけの書物が置かれていた。
『むかし、蝶を愛でるごく普通の姫君が住んでいるお屋敷のその隣に、按察使の大納言という人の館があって、そこに美しいが変わり者の令嬢が住んでおったそうな』
刹千那は不思議そうな顔で蜘蛛を見た。
「あら、紅蜘蛛丸、書物をじっと見たりして、あなたまるで文字が読めるみたいね?」
読める。読めるが、この姿では言葉は発せられなかった。他に人の姿はないし、人間の姿に化けてこの娘を喰い殺すのは簡単だろうと思うのだが、紅蜘蛛丸はなぜかそうする気にはなれなかった。
「これはね、小説よ。あたしが書いているの。いま、どう続けるか詰まっていたところだったんだけど」
『さて、自分の中に芽生え始めた感情の名前すら知らないうら若き姫が、ある日屋敷の庭を眺めてため息をついていると』
というところで、文章は途切れていた。
「そうね、あなたのことを書くわ。ね、紅蜘蛛丸。そうするのが面白そうだもの」
刹千那は筆をとり、続きをすらすらと書き始めた。
『物語はまだ続く。ニノ巻をお待ち頂きたい』
というところまで書いて、筆を置き、刹千那は紅蜘蛛丸に向かって語り始めた。
「右馬佐と、あたし自身が元になって書かれているこの姫とは、このさき。お付き合いを始めるはずだったんだけどね。お父さまが亡くなった知らせが届いて以来、ほんものの右馬佐さまはうちにお見えにならなくなってしまって。今は、よそにお通いなんですって」
と言って、少し寂しそうに笑い。それから刹千那はふわぁ、とあくびをした。
「眠くなっちゃった。寝ることにするわね。じゃあね、紅蜘蛛丸。あなたは野山にお帰りなさい」
しかし、紅蜘蛛丸はふいふい、と左右に前脚を振った。そして、畳の上に置いてあった虫篭に自ら入り、ついつい、と前脚でその蓋を叩いた。
「……まあ。驚いた。ここに居たいの? じゃあ、そうするといいわ」
刹千那は虫篭の蓋を閉め、眠りについた。紅蜘蛛丸も眠った。
朝になる。夜明けとともに紅蜘蛛丸は目覚めた。姫はまだ寝ていた。紅蜘蛛丸は中から自分で蓋を開けて虫篭から這い出し、人間の姿を取った。どういう原理か、僧衣はそのままだった。そういえば蜘蛛に戻ったとき、脱げた衣が道端に落ちたりもしなかったので、そういうものなのかもしれない、と思った。いや、そんなことより。
この姫を喰ったら、さぞうまいだろう、と紅蜘蛛丸は思った。だが、そうしたくないと思っている自分もいた。自分がなぜそうしたくないのか、紅蜘蛛丸自身には分からない。ただ、彼女の鈴の鳴るような優しい声を、その声で紅蜘蛛丸と呼ばれるのを、もう聞けなくなるのはかなしい。そう思った。さて、人間の姿に戻ったままそんな考え事をしていたので、やがて姫が起きて、彼に気付いた。
「きゃあああああ!」
朝に目を覚ましてまったく知らない大男がいきなり枕元に座っていたら、そりゃあこの年頃の娘なら肝を潰すだろう。それはそうだと紅蜘蛛丸も思った。
「あ、あなたまさか……紅蜘蛛丸なの……!?」
だが、僅かな間を置いただけで正体を言い当てられたのには心底驚いた。
「そ、そうだ。ゆうべ、ここに入ってきた、紅色の蜘蛛が、おれだ」
「びっくりした。人ではないけど、人が悪いわ。あなた、そういうことならゆうべのうちに教えてくれていればいいのに」
ぷん、と刹千那はふくれた。紅蜘蛛丸はなんとなく、おろおろする。
「一瞬だけ、右馬佐さまがここにいらしたのかと思ったけど。こんなに背が高くないはずだし」
刹千那が口にした名前は、昨夜灯かりの下で読んだあの小説に出てきた名前であった。だが、顔を見ても肯定否定ともに確信が持てないということは、つまり刹千那はその男と直接顔を合わせた経験がなかったのである。
「じゃあ、それは分かったから、出て行って」
「そ、そうだな。すまない。もう、この屋敷には、近寄らないようにするから——」
「そうじゃないわ」
刹千那はまたふくれた。
「女の子の起き抜けにはいろんな支度があるの。別に恋人でもないのに、
なんというか、この女には敵わない。そう、紅蜘蛛丸は思った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます