幕末篇

竜胆

第一話

 紅蜘蛛丸がその竜胆りんどうという女に初めて出会ったのは、忘れもしない元治の元年、祇園祭の宵宮のことであった。西暦で言えば1864年、いわゆる幕末の時代である。もっとも、最初に遭ったときには名前など分からなかったのだが。


 祇園祭であるからして夏の暑い日のこととて、紅蜘蛛丸は道端の茶店で腰を下ろし、甘酒を啜っていた。現代人の感覚からすると奇妙かもしれないが、江戸時代には暑い季節に熱い甘酒を飲むのが滋味として親しまれていたのである。


 そんなことはいいとして、ただでさえ人でごった返す京の賑わいの夜が、さらににわかに騒がしくなり始めた。何やら、遠くで人並みが割れている。割れた人並みの間を、数人の武者が抜き身の刀を引っ提げたまま行進していた。


「新撰組だ! 新撰組だぞ!」


 と呼ばわっているのが行進しているうちの誰かなのか、それとも野次馬の誰かだったのか、紅蜘蛛丸には分からない。ただ、新撰組、という名には覚えがあった。不逞の浪士を取り締まる活動をすると称して、何やら会津公松平容保かたもりの預かりになっている武装集団であると、京都所司代から話を聞かされている。紅蜘蛛丸は真言寮と呼ばれる調伏師の集団の事実上の長であり、家康が存命だったぐらいの時代から、徳川幕府との繋がりは密であった。要するに、彼もまた新撰組と同様に佐幕勢力に属しているのである。つまり味方だ。少なくとも建前の上では。


「あれが、新撰組か」


 紅蜘蛛丸はさりげなく、いつも持ち歩いている刹千那のしゃれこうべを法衣の袖で隠した。茶店に座っている通りすがりの生臭坊主に喧嘩を売るほど暇な連中ではないだろうとは思うが、無意味な騒動の種をわざわざ作りたくもない紅蜘蛛丸である。ちなみに、紅蜘蛛丸は平安の昔からずっと変わらず黒髪の長髪を気取っており、剃髪をしたことは一度もない。僧としては軽輩の者がする振る舞いであるからそれが悶着を呼んだりもするのだが、彼にも譲れない一線というものがあるのであった。


「……おや?」


 二列になって歩く新撰組が茶店の前を通り過ぎるとき、紅蜘蛛丸は一つのことに気付いた。女が混じっている。抜き身を引っ提げ返り血を浴びて、物々しい侍の装束をしてはいるが……女だ。総髪で、月代さかやきを剃ってはいない。背が低く、少年のようにも、ただの優男にも見えなくはないが……自分の勘に間違いはない、あれは女だ。女にしては精悍な顔立ちではあるのだが、ある種の美を感じさせる容貌ではあった。紅蜘蛛丸はほんの一瞬、その返り血のついた顔に見惚れた。


 と。


「……近藤さん。ちょっと気になる奴が」

「ん? どうした、総司」


 しまった。視線を釘付けにしていたせいなのか、向こうに気付かれた。紅蜘蛛丸にとってみれば不覚の極みであった。


「あそこに座っている破戒僧。あれ……人じゃありません」

あやかしか。しかし、そう珍しいものでもなかろう。宵宮だぞ」

「まあ、それはそうなのですが……」


 この時代のこの国では、人間と妖怪は多少ながら、まだ混じり合って暮らしていた。人間に敵対しない妖怪も多く、その筆頭は誰だったのかと言えば他の誰でもない、紅蜘蛛丸なのだった。


 結局、その日はそれだけだった。その晩にいわゆる池田屋事件という大騒動があって、新撰組が大捕物を演じ、そしてその新撰組が屯所に戻る帰り道に自分が遭遇したのだということを紅蜘蛛丸が知ったのは後日のことである。


 ところがそれから一週間くらいして、紅蜘蛛丸はまた、ばったりとその女に遭った。祇園祭のあるその月のその日にだけ特製の‟行者餅”という菓子を売る店が東山にあって、そこの行列に並んでいたところ、自分の一つ前に並んでいる女が、あのときのあの、侍の格好をしていた女だった。今はふつうに女の装いをしている。


「貴殿は。確か、宵宮の日に——」


 目が合ったのに黙っているのも変だから、紅蜘蛛丸の方から声をかけた。そうしたら、しーっ、と指を立てられた。ちなみに、‟貴殿”は男同士で使う二人称である。


「どうぞご内密に。今のわたくしは、リンドウという名の、ただの町娘ということになっておりますもので」

「リンドウ? リンドウとは竜胆、つまり瘧草えやみぐさの事か」

「そうです」


 竜胆の花をまた瘧草とも書くのは、その根を干したものが生薬として珍重され、特におこりに効くとされていたからである。しかしそれにしてもおかしな名だ、と紅蜘蛛丸は思った。少なくとも人の子が、ふつう女児に与える名ではなかった。

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