戦国篇

第一話

 いま思い返してもあの頃の京都が一番悲惨だった、と今日に至っても紅蜘蛛丸はなお思い出すことがある。それは永禄の頃、すなわち16世紀の中葉、もっと分かりやすい言葉でいえばいわゆる戦国時代のことであった。


 京都に歴史上最悪の災厄をもたらした応仁の乱が終わってから既に百年近くが経過していたが、しかしその間というものずっと、室町の幕府と朝廷はともに京にあって力と権威を失うこと著しかった。1500年に死んだ後土御門天皇は葬儀を行う費用を誰も捻出できなかったために四十何日間腐乱死体になるまで放っておかれ、次代となる後柏原天皇の即位の礼の費用がやっと捻出されたのはそれから二十一年後のことである。その息子の後奈良天皇はまだしもましで、父の死から十年ののち、西国の大大名である大内義隆おおうちよしたかからの多額の献金によって即位式を執り行うことができた。その献金というのは、それに先立って義隆に授けられた数々の官職や位階に対する事実上の返礼だったのではあるが。


 後奈良天皇も既に崩ぜられ、正親町天皇の時代が始まっている。この天皇が即位の礼までに要した期間は幸いにも僅か二年であった。大内義隆は部下の裏切りによって殺され、その部下だった男は新興の毛利元就もうりもとなりという戦国大名によって殺され、その元就の献金によって正親町天皇は即位礼を挙行したのである。余談だがこの元就というのが長州藩の藩祖の祖先にあたる。


 ちなみに室町幕府は何をやっていたかというと、その頃十三代将軍足利義輝の時代なのだが、その義輝は政変により京都に居られなくなって近江国の朽木というところに落ち延びており、朝廷によって年号が永禄に改められたというのにその連絡すら寄越してもらえないという有様であった。


 その義輝もさすがに京都に戻って、二条に自分の御所を建造し、そこで政務を執り始めた。しかし、もちろんのこと彼に将軍としての実権というべきものはほとんどなかった。この頃京都のある山城国を事実上支配していたのは三好みよし氏という戦国大名であり、そしてその三好氏を事実上支配していたのが、さらにその部下であった松永久秀まつながひさひでという、ほぼ現在の奈良に重なる大和国に本拠地を置く戦国大名である。表向きの立場としてはまだ三好家の家老という名目ではあるのだが、彼が京に建てた彼の屋敷は三好家の京屋敷よりも、そして足利義輝の二条御所よりも遥かに立派であった。京都において彼の威光の前にはすべてが霞み、彼の言葉に従わぬ者はなかった、と宣教師ルイス・フロイスの記録にはある。


「松永弾正から書状だと?」


 と、驚きの声を発するのは紅蜘蛛丸である。松永弾正とはその松永久秀の、官職名を冠した呼び名である。手紙を持ってきたのはこの当時の阿布都乃比あふとうないの当主、辰允たつまさであった。なお、阿布都乃比家も成り立ちはともかく事実上は公家に近い立場であるので、この時代には決して羽振りは良くない。


「茶の湯を一席設ける故、京都の自邸までお越しくだされたし、か」

「如何なさいますか?」

「いかが、と言ってもな。まさか断るわけにもいくまい」


 相手は悪逆非道と名高い乱世の梟雄きょうゆうである。つまらぬ怒りを買って屋敷に火でもかけられてはたまらなかった。紅蜘蛛丸は死なないが、死なないからといって何があっても何が起こっても生きていることに不便がないというものではないのである。

 

 というわけで紅蜘蛛丸は出かけて行った。いつもの僧衣にいつもの頭蓋骨を傍らにした姿のままではあるが、彼にはしかるべき機会には正装をするといったような考えは最初から無いのである。


「よくお越しになられた。吾輩が松永弾正少弼しょうひつ久秀である」

「真言寮紅蜘蛛丸、罷り越しましたる次第。して、御用件のほどは」

「まま、そう焦らずとも。いかがですかな、こちらは当方所用の、九十九髪茄子つくもなすと申しましてな」

「はあ」


 いきなり茶器を自慢された。かつて足利義満が愛用していた大銘物の茶入で、千貫文もの銭を費やして手に入れたのだそうだが、この時点での紅蜘蛛丸にはそうした教養はあまりなかった。


「それからこっちが、平蜘蛛」


 平蜘蛛というのは紅蜘蛛丸とは何の関係もなく、茶釜である。平べったい形をしているので平蜘蛛という名前がある。松永弾正はこれが好きで好きで仕方がなく、ものすごく自慢にしているらしい、ということは初対面の紅蜘蛛丸にも分かった。とりあえず、茶をもてなされる。最低限の知識くらいはあるので、かろうじて形をとりなす程度には茶席のかたちを作ることができた。


「さて、それで用件なのですが」

「は」

「当家に、さくらという末の娘が居りましてな。あいにく正室胎の子ではないのですが……これを紅蜘蛛丸どのの、妾にもらってはいただけませぬか」

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