【現代篇閑話】菊花の季節

「べにさまべにさま。九月の九日には菊の花のお風呂に入るって知ってました? ツイッターで知ったんですけど」


 と、彼岸花は紅蜘蛛丸にLINEを送った。


「知っている。そういえば、久しくそのようなことをしていないな」


 今日ではほとんど忘れられた風習であるが、旧暦の九月九日は重陽の節句または菊の節句と言って、菊花を風呂に浮かべたり、あるいは酒に浮かべたりして無病息災を祈る日である。古く平安の昔から、菊には延寿の効用があると人々は信じていた。


「でも今年はもう終わっちゃったからどうしようもないですね」

「その九月九日というのは、旧暦だ。まだ間に合うのではないか?」


 と言われたので彼岸花がググってみたところ、今年の重陽の節句は現在の暦に直すと10月4日であった。まだ間に合う。ちなみに、そもそも重陽の節句がなぜ廃れてしまったかと言えば、明治の頃に暦が旧暦から新暦に改まって、それ以後、九月九日は菊の季節ではなくなってしまったからである。菊というのは秋の深まる頃に咲く花であるので。


「やってみたいです! 菊ってどうやって用意すればいいのかな」

「風呂に入れる菊は、むかしは竜脳菊を使ったものだった」


 竜脳菊は野菊と呼ばれる菊の仲間の一種である。打ち身や冷え性に効能があるとされ、つまりは一種の薬草であるが、わざわざ大規模に栽培されているというほどのものではないので、物好きな園芸趣味の知人がいるというのでもない限り、山野に出て摘んでくる方が早い。


「なんか、食用菊の干したやつでもいいらしいですよ。通販で売ってるからそれ買いますね」

「うむ」


 そもそも紅蜘蛛丸は無病にも息災にも延寿にも興味がなく、また打ち身や冷え性に悩まされることもないので、あまり気の乗らない返事をする。


「そういえば菊っていえば。べにさまのお部屋の床の間に置いてあるあの刀、菊一文字だってホントなんですか?」

「本当だよ」


 紅蜘蛛丸の部屋に置いてあるその刀には、彼岸花はほとんど触れたことがない。紅蜘蛛丸が大切にしていて、手入れも自分でしているので、鞘から抜いて刀身を目にしたことすら無いのである。


「またまた~。いくらうちが旧家で名家でも、そんな刀がほいほい床の間に飾ってあるわけないじゃないですか~。則宗の菊一文字、本物だったら国宝ですよ。国宝」

「さて、どうだろうな」

「まあ、そんなヨタ話はいいんです。その日は菊の花浮かべたお風呂にしますから、一緒に入りましょうねぇ」

「うむ」


 いつもいつもそうしているわけではないが、二人の間ではそのようなことが行われることもある。夫婦同然の暮らし、と言わざるを得ないゆえんである。


「今夜はお帰りになられるんですか? 遅い時間?」

「きょうは日が暮れないうちに帰るよ」

「やった。じゃあ、待ってますね。あ、お土産は『紗織』のモンブランがいいです」


 紗織というのは和栗専門店を標榜する高級洋菓子店である。テイクアウトのモンブラン一つが千円以上もする。ちなみに、京都というところは丹波栗というブランド栗の名産地としても知られているのであった。今は秋なので旬である。店は真言寮からそう遠くはないのだが、もちろん普段の彼岸花は一人で買い物に出るようなことはしない。


「はは。忘れなかったらな」

「むー。忘れたりしたらダメです。可愛い彼岸ちゃんのためですからね。忘れないで買ってきてくださいね」


 で、結局紅蜘蛛丸は言われた通り、丹波栗のモンブランを買って帰った。彼岸花はご満悦であった。

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