第三話
蜘蛛の姿に戻った彼は庭を這って行った。なんだか、貴族の邸宅であるというには随分と荒れ果てた庭であると、彼にも分かった。そろそろ、何かを喰いたいという思いがあった。にんげんを、喰いたい。屋敷の中に人間はいるだろうか。
按察使の大納言の邸宅は寝殿造と呼ばれる当時の一般的な貴族屋敷の建築様式で、みやこの一町の区画がすべてその屋敷ひとつのために使われている。一番外側は築地塀に囲まれているのだが、これは後世の日本の石塀や板塀とは異なり土を突き固めて屋根を置いただけのものであるから、風雨に弱く、割と簡単に壊れた。蜘蛛がさっき入ってきた場所もそうして穴が開いていたのである。金のある貴族はこまめにこれを修復するが、財政の芳しくない貴族の家では長い築地塀の修復が追い付かないことがある。清少納言の『枕草子』には、これを指して「人に侮られるものと言えば、築地の崩れだ」という一節がある。
寝殿造の屋敷には人工の池と、その中にさらに人工の島が置かれる。橋がかかっており、屋敷の主がそこから自邸を鑑賞したりなどするわけである。建物の中心になるのは寝殿と呼ばれる母屋と、東西ならびに北に置かれる
さて、庭をうろうろしている間にやがて日が暮れていた。按察使大納言邸は広いが、どうも人の気配に乏しい。暗くなったのに明かりが灯される様子もなかった。どうもおかしいな、空き家なのだろうか、と思って、蜘蛛の姿のまま上がっていった。ちなみに建物の中に入るためには
ようやく明かりが見えた。
「まあ。今更うちにお客さんなんて珍しいわ。こんばんわ、真っ赤で大きな蜘蛛さん」
彼は捕まってしまった。いや、すぐ人間の姿に変じることもできるし、どうとでもなるのだが、なんとなくされるがままにしていた。少女は長い黒髪を持ち、痩せていた。
「ここはあたしのお父さま、按察使の大納言のお屋敷だったんだけどね。お父さまは二年前に、任地で落馬してお亡くなりになってしまって。それからすっかり寂れてしまっているの。それであたしの名前はね、
にんげんの姿に化けて、返事をすることもできるが、なんとなく、そうするべき時ではないと思った。彼は娘の言葉に耳を傾ける。
「なんてね。野の蜘蛛に名前があるわけはないわよね。だから、あたしが名前を付けてあげましょう。とても美しい紅い色をしているから、あなたは今日から
鈴の鳴るような、美しい声だった。紅蜘蛛丸となった彼は、自分はいままさにそれに聞き惚れているのだ、とはまだ気が付いていなかった。
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