第八話

 運命の年、承久三年。すなわち1221年、晩春。後鳥羽上皇は流鏑馬汰やぶさめそろえと称して西国の武士に召集をかけた。流鏑馬とは馬に乗って的を射る武士の技芸、汰えるというのはその参加者を集めるという意味である。集まった武士たちの前で、上皇の宣言が読み上げられた。紅蜘蛛丸もその場に居合わせ、それを聞いた。


『右大臣実朝の死後、幕府にはこれを継ぐ者がないため、執権北条氏は幼子を鎌倉に招いてその候補に立てた。しかし、その子が幼若で分別を持たぬのを良いことに、執権北条氏は幕府の権力を壟断ろうだんし、しかるべき政治が行われなくなった。であるから、今後は幕府の権力執行を差し止め、すべてを天子の御心によって決するものとする。この決定に従わず、反逆するものには死が賜られる。功績を挙げた者には褒美が与えられるであろう。以上、これは天意である』


 側近たちの前で、後鳥羽上皇自身は一言、こう言い放った。


「幕府を潰す」


 こうして承久の乱が始まった。もっと後の時代の紅蜘蛛丸なら、これはえらいことになった、と慌てたかもしれない。だがこの頃の紅蜘蛛丸は、人の寿命よりは長く生きているとはいえそれでもまださほど齢を重ねておらず、従って盛んと言うだけの血気を持っていた。


「朝廷と幕府の戦か。これは、妖怪王紅蜘蛛丸の名にかけ、本腰を入れて出陣せねばならんな」


 後鳥羽上皇が討幕令を全国に発したのと時を同じくして、紅蜘蛛丸は麾下に従える全国の妖怪に総動員令を発した。


 だが。


「なに? 幕府の軍が、もう宇治に迫っているだと?」


 紅蜘蛛丸は驚愕した。考えてみれば、個人の侍と戦った経験はあっても、侍の軍勢を相手に戦をした経験などというものは過去に一度もなかった。しかしそれにしても、まさか朝廷側の宣戦布告からわずか一ヶ月の間に、それも二十万近くもの大軍に膨れ上がった鎌倉方の軍勢が京に迫ってくるなど、予想の埒外のことであった。もちろん、二十万の軍勢が鎌倉から直接来たわけではなくて全国から鎌倉方に身を投じた武士たちが続々参集した結果の数ではあるのだが、そんな事情が何だろうといずれ同じことである。


 妖怪の軍勢は、そんなにすぐには全国からは集まらない。この時点で紅蜘蛛丸の指揮下に入ったのは、もとから近畿地方にいた者たちばかりで、その数は百を越えぬ程度でしかなかった。


「赤坊主!」

「はっ」

「大入道!」

「応」

陰摩羅鬼おんもらき!」

「はーい」

木心坊きしんぼう!」

「んー」

「ヒダル神!」

「あいよぉ」


 こやつらは、個々の戦闘力において言えば、人間の侍よりも強いだろう。だが、敵の数は二十万だと? 勝てるのか? わたしは、勝てるのか?


「これは、紅蜘蛛丸どの。ご無沙汰しておりました」


 と言って、宇治橋の西側に布陣した妖怪軍の隣に並んだのは、交野八郎とその一党であった。なお、現地の将には佐々木経高が任ぜられている。彼は上皇側についていたのである。しかしこの頃、申丞しんすけはもう経高のもとにはいない。申丞は真言寮で留守居をしていた。菊はといえば後鳥羽院のもとにいる。


「ともかく。戦いの要となるのは宇治橋であろう。ここさえ守り切れれば——」


 と、言う紅蜘蛛丸の目の前で、川の対岸で。


 鎧武者の群れが、増水した川に次々と飛び込むのが見えた。


「なに……!? なんということを……!」


 渡河作戦、つまり増水した宇治川を押して渡って敵軍を奇襲せよという命令を出したのは、その場で幕府軍を率いていた総大将北条泰時その人であった。


「崩れるな! 陣を崩すな! 踏み留まれッ!」


 紅蜘蛛丸は絶叫する。だが、畿内を恐れさせた精悍な妖怪たちが、次々に目の前で討ち取られていた。交野八郎も全身に矢を浴びて死んだ。


「ごめんよぉ。もう、だめでしょう。あなたは死なないからよろしいでしょうが。わしは、死んでしまいますので。失礼させていただきますよぉ」

「ヒダル神! 逃げるな! 逃げるなーッ!」


 と、叫んでみたが、紅蜘蛛丸もまもなく敗走せざるを得なくなった。個としての限界というものがある。一人で敵軍のど真ん中に囲まれて、何ができるというものでもないのである。そして、幕府軍は宇治川を含むすべての前線で朝廷側の防衛網を突破し、京都になだれ込んだ。


 こうして。


 承久の乱は、後鳥羽上皇の、そして朝廷の、惨敗に終わったのであった。泰時の馬が京都に足を踏み入れたその直後、後鳥羽上皇は討幕令を撤回し、停戦を命じた。事実上の、全面降伏であった。


 この結果として上皇と天皇あわせて四人が処罰され、廃位または流罪となった。後鳥羽上皇は隠岐に流され、そこで余生を送ることになる。佐々木経高は泰時から助命を前提とした降伏の勧告を送られたが、自らを恥じて自害した。


 紅蜘蛛丸は人間ではない上に殺す手段がないため、長期間の謹慎という処分で済まされた。だがこの時の恥がそそがれることはついに永遠になく、その後二度と、かれは自分のことを妖怪王紅蜘蛛丸とは言わなくなった。


 さて、最後に問題なのは菊のその後である。


 彼女は後鳥羽上皇と密儀の上、討幕の指令に関わっていたことが露見し、その首には懸賞がかけられた。菊は真言寮に戻ってここに籠ろうとしたが、申丞しんすけは門を固く閉ざして彼女を寮に入れなかった。


「開けて! 開けてくだされ! わちは! わちは阿布都乃比の当主ぞ!」

「あなたはもう当主ではありません。姉上、いや、菊殿」

「申丞……! そなた……!」

「当主の座は私が継いだ。そして当主の名において、あなたが金輪際、この真言寮に入ることを禁じます」

「申丞ェェェ!」


 結局、菊は幕府側に捕縛され、六条河原の刑場に引かれて斬られることになった。源平争乱の頃から江戸期に至るまで、時の権力に抗って失敗した者はここで斬られるのが京のならいであった。屈強な武者が、縛り上げられた菊を引きずって河原に横たわらせ、そして強引に首を差し伸べさせる。


「紅蜘蛛のきみ! お助けください! お助けください! 菊は! 菊は死にとうな……」


 それ以上は言えなかった。阿布都乃比菊の首は、六条河原に飛んだ。


 その夜。事情が事情であるから、菊と首を並べて斬られた者は他にも沢山いて、その場にはうず高く、死体が積み上げられていた。菊の死体も無造作にそこに積まれていた。と、異変が起こった。


 首が無い菊の胴が動き、自分の首を探し始めたのである。死体ばかりが転がる刑場のことであるから、不寝の番をしている者など別に居はしない。従って誰も気付かなかった。


 やがて、首無しの胴体が、その両手が自分の頭を探し当てた。抱え上げ、何もない自分の首の上に据える。切られた傷口は、まもなくすぅっと消えた。そうして。


「ひひっ」


 陰陽童子は、誕生したのだった。

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