第三話

 調伏師というのは、人の身にあって外法の術理を修め妖魅や怪異を祓う者たちのことである。紅蜘蛛丸の知る限り当代で最強の調伏師は彼岸花であり、歴史を遡ってみたところで彼女に勝る力を持った調伏師などはいくらもいない。


 だがそれでもなお、彼岸花のいちばんの恐ろしさというものは、彼女の修めてきた外術げじゅつの多彩さや強大さとはまったく無関係のところにある。


「紅様」


 彼岸花はまったく戦意のかけらもない足取りで紅蜘蛛丸に近付き、そして唇を重ねる。彼岸花の長い黒髪が纏わりつく。紅蜘蛛丸はそれを拒もうとしない。受け入れ、絡み取り、そして蹂躙する。


「ん……」


 彼岸花の身体は生まれたときから死の呪いで満たされている。不死者である紅蜘蛛丸というただ一人の例外を除いて、彼岸花に触れた者はみな死ぬ。故に彼女は母親を殺して生まれてきたし、その体温を知ってまだ生きている者は紅蜘蛛丸だけである。


 嗅ぎ慣れた死の匂いが強くなるのを紅蜘蛛丸は感じる。彼岸花が欲情すると、彼女の呪いは強くなる。彼岸花は自分のこの性質を自ら制御することができない。嫉妬や怒りもまた彼女の力を増幅させる。


 彼岸花は知っている。この男が自分を怒らせるような振る舞いをいつもいつも故意に繰り返すのは、この自分のこの力によって殺されることを願っているからだ。でも、やっぱり今回もまた駄目だった。


「彼岸」

「はい、紅様」

「なぜ、ここへ来た」

「紅様が既読無視やら未読無視やらをするからです」

「そうだったか?」

「そうですよ。せっかくかわいいスタンプ買ったのに」


 紅蜘蛛丸はiPhoneを開いてみた。確かに三日前からほったらかしで、最新のメッセージは何やらよく分からないキャラクターが怒りを表明している図像になっていた。紅蜘蛛丸は千年以上も生きている。故にその時間感覚は定命の人間よりも遥かに緩やかである。


「とにかく。寮へ戻れ。月が明けぬうちには顔を出す」

「いやです。せっかくこんな北の果てまで追いかけてきたのに」

「彼岸」


 真言寮と呼ばれる場所が京都にある。寮とはそれである。彼岸花の出た調伏師一族の本拠地であった場所。しかし今はすっかり寂れ、そこに身を置くものは彼岸花ひとりとなっている。


「札幌駅のタワーホテルで、並び三部屋を借り切って真ん中の部屋に泊まってます。あしたデートしてくんなかったら帰らない」

「彼岸」

「たまには……いいじゃないですか。紅様がこの世界に引き留めていてくれなかったら、あたしは自分が人間だってことすら分からなくなってしまうんです」


 彼岸花の死の呪いは触れていない相手に対しても伝わってしまうことがある。生命力の弱い人間は彼岸花と道ですれ違うだけでも危険だし、それを分かっているから彼女は普段、俗世間とほとんど関わりを持たずに日々を送っている。紅蜘蛛丸はひとではないが、それでも彼岸花と比べれば彼の方がまだ人間であった。


「それじゃ。楽しみにしてますからね。明日ですよ」


 彼岸花は再び闇の中に姿を消した。紅蜘蛛丸は朝まで、彼の時を過ごす。


「あれ、お早いんですねベニグモさん。あと……一時間半か。時間的には余裕なわけですけど、もっかいします?」


 紅蜘蛛丸は拒みはしなかった。そこに置かれた刹千那のしゃれこうべだけが、虚ろな眼窩をじっと二人の方に向けている。


「あー、やっぱり朝の一発っていーわー。それじゃ。また呼んでくださいね」


 おんなは名刺を残して部屋を出た。迎えの車に乗り込み、後部座席でスマートフォンを開く。妙な客だったなー、自分だって本当は百合ではなく内田うちだ鹿子かのこであるわけで、つまり偽名を使うのは別にいいんだけどしかしなんだってまたそれが紅蜘蛛丸なんだ、などと思いながら欄に文字を打ち込む。


「‟せちなとべにぐも”」


 ああ、そうだ、こんな話だった。柳田國男とはまた別にこの話をもとに短い小説を書いた人というのもいて、その内容はこう始まる。


「年経た大蜘蛛は強大な力を持ったあやかしに変ずることがある。そのための歳月は」


 ふむふむ。


「僅かに百年あれば足りる」

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