第四話

「細かいことを申すとな、吾輩の手勢ではないのだよ」


 と弾正は言った。場所は真言寮の茶室である。茶室などというものはここには無かったのだが、ごく最近、紅蜘蛛丸が櫻の助言を容れて造らせた。これからの時代の社交にはこうしたものも必要だ、というので。人間の社会は面倒くさいな、とは思うが、さりとてその意見を無下にもできない紅蜘蛛丸である。


「将軍を討つために御所を囲んだのは、三人衆と呼ばれる三好家の重臣団と、吾輩のせがれ久通ひさみちの軍勢であった。吾輩自身は、あのとき信貴山しぎさんにおったからな」


 信貴山城は松永久秀の居城である。奈良の北西部、生駒の山中にある。なお、天守閣というものを備えた最初期の城としても知られる。


「……御嫡男が、弾正どのの許しも得ずに、勝手に将軍を殺したとでも?」

「ははは。まさか、そんなことはないが」


 じゃあ結局お前が将軍を殺したのではないか、と紅蜘蛛丸は思ったが、さすがにそれを目の前で口には出さない。紅蜘蛛丸自身、別に将軍足利義輝という人物に恩もなければ義理の一つもあったわけではないという事情もあった。


「主君を殺し将軍を殺し、しかし天下というのはなかなかに遠いものだな。その三人衆が、どうやら吾輩と袂を分かつつもりのようで、対決姿勢を強めている。また戦になりそうだ。で、貴公の力を借りたいのだが。なあ、紅蜘蛛丸どの」


 そういう話をされる可能性を予測はしていたが、紅蜘蛛丸は目を伏せて首を横に振った。


「そう言われていたのは随分な昔のことだ。わたしが号令一下に百鬼妖怪の軍勢を集められる、などと期待してもらっても困るし、仮に出来たとしても」

「出来たとしても?」

「所詮は人間の軍勢の方が、強い。実はそういったことはむかし散々にやって懲りているので、それは請け負っていい。まして、今は槍と弓ばかりではなく、鉄砲の時代になりつつあるというのだろう。われわれが戦場で出る幕など、最早ありはしますまい」

「ふむ……そういうものか。なれば、ひとの子の調伏師というのは、如何かな?」

「かれらは妖怪退治の専門家であって、弓鉄砲で武装した侍と戦をするようには育成しておりませぬ。また数も少ない。いくさ働きなどさせて、あたら犬死にをさせるわけには参らぬ」

「ふむ……そういうものか。ま、他にあてがないわけではない。なれば別の手をあたるとするよ」

「そうしてくだされ」

「それじゃ、今日はこれで失礼するが。これは、土産だ。『黄素妙論こうそみょうろん』という。友人の医者が吾輩のために書いてくれたものなのだが」

「書物ですか。どのような?」

「読んでみれば分かる。それではな」


 と言って、松永弾正は帰っていった。


「おつかれさまでした、紅蜘蛛様」

「おお、櫻。御父上からこんなものを貰ったのだが」

「……それは」


 櫻はなぜか赤面して目を逸らした。


「なぜ恥ずかしがる。この本を知っているのか?」

「家にありましたので……読んだことがあります。それは……」


 櫻の口からはそれ以上説明されなかった。なので紅蜘蛛丸は読んでみた。そして仰天した。


『それ女人の淫念いたらざる間は男子しゐてまじはるべからず、女人に淫欲の情念の至るしるし五つあり。一には、男女ひそかに対面し物語などするににわかに女のおもて赤くなるは心中に淫事の念きざすしるし也、其時男子の玉茎たまぐきを女人の玉門にあてがふべし』


 音読する紅蜘蛛丸から、櫻は真っ赤な顔でますます目を逸らした。『黄素妙論』というのは房中術について記された本、平たく言えば、セックスの指南書なのであった。


「お父様は、何しろお好きですので……その……」


 恥ずかしがる櫻を、紅蜘蛛丸は可愛いと思う。抱き寄せる。拒まれはしなかった。


 それはさておき。


 紅蜘蛛丸のところから自分の京都屋敷に帰った松永弾正のもとに、来客があった。子供のような外見。おかっぱに切り揃えた髪。幕末の頃よりは、わずかに滑らかに回る口調。


「おはつに、おめにかかります。わちのなは――」

「うむ。よく来て下された」


 陰陽童子その人であった。

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