第八話

 彼岸花は気が付くと、夜の京都にいた。祭りの雑踏の中だった。


「あ、そうだ。今日は祇園祭の宵宮だった。行者餅……って、あれ!? 紅様は!?」


 誰もいないような真夜中でも滅多なことでは出歩いたりしないというのに、ましてや祭りの雑踏の中で紅蜘蛛丸と手を繋がずに歩くなど、とんでもないことであった。一度だけ、紅蜘蛛丸なしでひとり京都から札幌まで旅をしたことがあったが、あれは彼女にとっては生まれて始めてとも言うべき大冒険だったのだ。大型のハイヤーを呼んで、京都府の舞鶴と小樽を結ぶ何十時間もかかるフェリーのスイートルームを一人で借りて。いや、そんな思い出話は今はいい。問題はこの場所だ。周囲は人で溢れ返っている。


「あっ!」


 はずみで、彼岸花は誰か知らない人とぶつかってしまった。大変だ。殺してしまった。


「ご、ごめんなさ……!」


 ごめんなさいで済む問題ではないが、しかし相手はその場に倒れたりしなかった。普通にそのまま、会釈だけして彼岸花のところから離れていく。あれ?


「あ、そっか」


 彼岸花ははた、と思い当たった。


「ここ、本物の京都じゃない。あたし、死んだんだ。死んだから、周りにいるのも死んだ人たちばっかりで。つまりあたしも死んだから、もう周りの人を死なせる心配もしなくていい」


 なんかそれはひどく肩の荷が下りたような気持ちであった。しかし、自分が死んだということは、紅蜘蛛丸は置いてきてしまったのだろうか。彼は、千年失い続けてきたその果てにまたこのあたしというかわいい女をも失って、また一人で永遠を生きなければならないのだろうか。ほんと、不憫な紅様。


 と。


「らんらんらー、らんらんらー、やっぱり行者餅はおいしいなーっと」


 向こうから、むっしゃむっしゃと菓子を喰いながら、一人の女が歩いてきた。女なのにあの有名な浅葱あさぎにだんだらの新撰組の隊服を着ていて、腰に刀を差していた。


「こんばんわ、21世紀生まれのお嬢さん。わたくしが誰か分かります?」

「えーと……新撰組隊士で、女ということは、もしかして沖田総司」

「そう。半分あたり。でも、わたくしの本当の名前はね」


 すらり、と女は刀を抜いた。


「竜胆、と言います。紅さんにもっとも愛された、三人の女、その最後のひとり」

「その計算、わたしもだけど何より先に刹千那さんが入ってないから、数え方がおかしいですよ」

「まあそれは言いっこなし」


 斬りかかってくる竜胆をすい、と躱し、ちょい、とその肌に触れてやった。途端に、女は崩れ落ちた。


「気付いているか気付いていないか知らないけど、わたくしは死者ではないわ。かといって、もちろん生者でもない。わたくしは、紅蜘蛛丸の中の記憶。紅蜘蛛丸の中に受け継がれる、永遠の愛の記憶のうちの一体」


 そうとだけ言って、竜胆と名乗ったものは目を閉じた。


 また、向こうから誰か来るのが見えた。


「あなたが、紅蜘蛛様に愛された最後の女、なのかしら。ああ、妬ましい」

「そういうそちらは、多分櫻さんですね。戦国時代の」

「そうよ。松永久秀が四女、櫻と申します。お初にお目にかかるわね」

「え。松永久秀って、平蜘蛛の釜で有名なあの松永弾正久秀?」

「そうよ。知らなかったの?」

「知りませんでした。さっきの沖田総司といい、紅様って本当になんていうか」

「まあそんなことはいいわ。あなた、不思議な力をお持ちだそうね。ちょっと、わたくしに使ってみせてくれないかしら」

「いいんですか」

「どうぞ」


 じゃあ、というので、触れてみた。櫻は死にも倒れもしなかった。


「ふふ。ひとの歴史にはね、時折、あなたの予想もつかないような異能を持った者が現れることもあるのよ。あなたもそういう男と運よく出会えたらよかったのにね」

「大きなお世話です。燃えてください」


 彼岸花は自分が得意とする炎の術を放った。櫻はふふ、といった風に微笑んだ。


「あなたに、わたしの指を一本あげる。ここぞ、と言うときにお使いなさい」


 櫻は何か、人形の一部のようなものを差し出した。本物の人間の指とは思えなかったが、特殊な呪力が宿ったものだということは分かった。


「ありがとう」

「いえいえ。紅蜘蛛様のこと、よろしくね。わたくしはあの方に、寂しい思いをさせてしまいましたから」

「自分がいなくなったことが紅様にとって苦痛だったと、何の疑いもなく確信しているあたりマジでムカつきますね……さて。この流れだとあと一人、出てくるはず。菊って名前の人」

「ひひっ」


 陰陽童子が現れた。妖怪になってからの、妖しいというより怪しい姿の彼女ではなく、まだ人間だった頃の、あどけなさを残した菊の姿であった。


「あなたもあたしに何か言いたいこと、あるんですか?」

「え? 別に……わちは、何でここに? そもそも、ここはどこでございましょう」

「多分、紅様の心の中ですよ、ここは。あたしも、本物の彼岸花じゃなくて、既に死んだ彼岸花の記憶で、それが紅様の心に現れてるだけなのかもしれないですね。で、あなたは、紅様がかつて愛した上から五人の女の中の、上から三番目から五番目までのどれかとしてここに呼び出されているわけですが」


 ずばりと確信を突くようなことを言う彼岸花に対し、菊は子供のように狼狽えた。


「ええっ!? わちが、紅蜘蛛のきみの生涯で、五番目以内に入る、愛された女だというのですか。そは、うれしやな。うれしやな」


 とだけ言って、陰陽童子はにこやかに笑いながら、消えた。まるで、成仏した、という感じの消え方であった。


「消えちゃいました。さて。この後ですけど……ああ、やっぱりいた」


 いつの間にか祭りの喧騒はすっかりと消え去り、地平の彼方まで何もない闇の中に、彼岸花と彼女と、そしてその傍らにある紅蜘蛛丸の姿だけがあった。


「あなたが、刹千那さんですね。いつもお世話になっております、はじめまして」


 だが、今までの三人と違って、刹千那は返事をしなかった。紅蜘蛛丸の方を向いてもいない。背を向けて、うずくまるように座っている彼女の背中越しに、紅蜘蛛丸が一生懸命何かを語りかけている。だが、その言葉は届いていないようだった。


「紅様。それが、あなたのいつもの、そして千年間ずっと続いている、心の中の風景なんですね」


 刹千那は手のひらの上にさっきもらった櫻の指を載せ、その手で紅蜘蛛丸に触れた。すると、その紅蜘蛛丸の姿は果敢無くも崩れ去り、刹千那は骸骨の姿になって崩れ落ち。そして刹千那の頭蓋骨の上に、ちっぽけな。本当にちっぽけな、人間の手のひらの上に載ってしまう程度の大きさの、紅い蜘蛛がいた。それは、刹千那の頭蓋骨を撫でながら、撫でながら、ただ、震えていた。


「それが、紅様の。心の中の、本当のお姿ですか」


 おそらく、この姿の紅蜘蛛丸に触れれば。あたしは彼を殺すことができる。


 でも。


 そっと、指を伸ばし。だが、触れないままに、彼岸花は紅蜘蛛丸の前で、指を止めた。


「紅様。帰りましょう。一緒に、寮に帰りましょう? そうしたらあたし、また、大根にお塩と昆布をして、浅漬けを作りますから。紅様は、柏屋光貞さんのお菓子、お土産に買って帰ってきてください」


 ふ、と蜘蛛の震えが止まった。


「ね。帰りましょう? 紅様……大好きです。ずっとずっと、彼岸はあなたのことが大好きです」


 途端に。幻だった世界が、がらがらと崩れ落ち始める。

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