第五話

 夜も更けて。紅蜘蛛丸は眠る彼岸花を部屋に残し、ひとり繁華街の喧騒の中を歩いていた。


 狸小路商店街。一丁目から七丁目まである一筋の長い全蓋式アーケードに二百余りの店舗が並ぶ、札幌市内で最大級の商店街である。この道を歩くと狸に化かされるように店に誘い込まれてしまうという伝承が明治の時代にあって、それで狸小路の名がついたと言われる。


 一丁目から六丁目までのアーケードは、昭和の後期に改装されて今のかたちになったもので、雰囲気としては現代的である。七丁目のアーケードだけは創建当初のままで、既に六十数年が経過しており、だいぶ年輪を経ているのだがそれが昭和レトロの味わいなのだと当地では主張されている。


 いずれにせよ、狸小路のアーケードは七丁目までである。七丁目の先にはちゃんと八丁目があり、そこも商店街ではあるのだが、七丁目までに比べれば街としての密度は低く、また大前提としてアーケードは作られたことがない。


 だが、紅蜘蛛丸は最近になって噂を聞きつけた。ここに幻の八丁目アーケード街があって、時折深酒をした旅人が迷い込むことがある、と。


 事実なれば異界である。話の前提からして、20世紀も後半になって新たに生まれた異界だということになる。紅蜘蛛丸は何日も前からこの場所で、その幻のアーケード街の入り口を探していたのであった。薄野でおんなを買うのが目的で、北海道くんだりまで来たわけではないのである。


 わずかな手掛かりによれば、八丁目アーケードに迷い込んだ者たちはみな深夜に、かつ深酒をしていたという話であるので、紅蜘蛛丸は七丁目の適当な居酒屋を選んで土地の純米酒などを嗜んでいた。紅蜘蛛丸は不死であるが、だからといって酒の進みはざるでなく、ぎりぎりの加減を考えている。異界渡りの為には前後不覚になるまで飲んだ方がいいのだろうか、とも思うが、しかし記憶が飛んでしまったのでは何にもならない。


 と。店主に看板を告げられたので支払いを済ませ、ふと自分が使っていたカウンターの上を見ると、見覚えのない黒い花が置かれていた。なんとなしに手に取ると、隣から声をかけられた。


「もう、三日もこの店に通っていらっしゃいますよね」


 女の声である。横を見れば、ふちの濃い眼鏡をかけた若い女であった。その前には当たり前のように吸いさしの煙草と酒杯があるのだが、いつからその席にいた? 紅蜘蛛丸には覚えがなかった。


「この花はそなたのものか」

「ええ」

「それは失礼をした」

「いいええ。構いませんですのよ。クロユリは本州でも見られるのですけど、この北辺の地に咲く方が、大きく美しい花を付けるのだと言われておりましてね」


 既に二人は店を出て、当然のように二人並んで歩いている。足が向くのは、六丁目の方ではなく、八丁目がある方向である。だが、本来なら切れるはずのアーケードが、道を挟んだ向こう側にもう一つあった。大きな看板が出ていて、そこには『神威小路8』と書かれていた。


「かむいこうじ、か」

「ええ。ここがあなた様の探していらした、幻の八丁目アーケード。ようこそいらっしゃいました、紅蜘蛛丸様」

「わたしの名を?」

「僭越を申し上げるようですが、傍らにしゃれこうべを抱えて夜を渡る大妖怪の存在と名を知らぬあやかしが、今更この国にまだ残っているとお思いだったのですか」

「……それもそうか」

「わたくしも、名乗らせていただいても?」

「無論」

「では。……お初にお目にかかります。パウチコロムン、と申します。以後お見知りおきを」


 土地の言葉で‟淫魔の草”という意味の名を持つ女は、口の端に妖艶な笑みを浮かべ、そして不夜の歓楽郷へと男を導いてゆく。

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