第82話 液状化

(※注意 本章の文中には、地震の様子を描写する表現が含まれます。今は読みたくない、と思われる方は、申し訳ございませんがこの先はご遠慮ください)

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「立ちあがらないで!身を低くして、座布団でも上着でもいいから頭を守って。おかあさん、お子さんの手を話さないで。」

テントの外に飛び出した甲斐は、自らもしゃがみながら叫んだ。

「揺れはすぐ収まります。テーブル近くの人はその下に!火の元から離れて」


境内のあちらこちらで、悲鳴があがっている。ステージ広場に並べられたパイプ椅子が音をたててぶつかり合い、丸テーブルから紙コップが落下して、焼きそばやじゃがいもフライが地面に散乱した。

「チクショー、長いな」

宇堂と共に依田ばあちゃんを守るように抱きかかえた田野親方が嘆く。どこかでガシャン、とガラスの砕ける音がした。

いつまでも続くかと思われた、荒波に翻弄される小舟にも似た長い横揺れ。それはやがて、少しずつ収まっていった。


「慌てないで。怪我をした方はいませんか?立つときはゆっくり、そして周りの人を確認してください!」

頭にリュックを載せた甲斐が走り廻っている。ミスターと玲奈も、周囲の安全を確認するために飛び出していった。半田はスワニーのテントで美佐江の手助けに、理恵は「帰ってきたひだまりカフェ」へと駆けつけた。


「ミスター!参道の石段側は大丈夫。転倒した人はいないわ。そっちは?」

「裏側もひとまず大丈夫です。多少の落下物はありますが、大きな崩れや倒壊はありません」

良かった、とため息をつき、玲奈はスマートフォンを取り出す。表示された速報から、この地域の震度は5強と判明した。マグニチュードは7.0の中震、震源地は太平洋側の沖合海底。今のところ津波の心配はなし、ただし余震に注意との記述があった。

「ひとまず、情報センターをこの場の対策本部にしましょう。アストロノーツに市内の情報が集約されてくると思います」

ミスターの言葉に玲奈がうなづき、周囲の人々に声をかけながらテントに戻っていった。


情報センターのテントでは既に、田野がPCの画面をスクロールしていた。

「どう?田野さん」

「被害の状況がどんどん入って来てるぜ。どうも水が出ているようだ。水道管かな。日が落ちたんであまり良く見えないが、うおっ?」

ウインドウに、動画がアップされていた。リアルタイムの映像のようだ。家の横を走る道路を二階の窓から見下ろすように撮影している。揺れで生じたと思われるアスファルトの亀裂から、黒い泥水がみるみる溢れ出していくのがはっきりと分かった。亀裂だけではない。泥水は側溝の蓋を持ち上げて路面を濡らし、道路と家屋の境界を成す隙間からも吹き上げる勢いで見る間に辺りを水没させていった。


「液状化現象だ」

PCの周りに集まった一同は互いに顔を見合わせた。明日登呂の市域のおよそ半分は、海を埋め立ててできた土地だ。地中に含まれる水分と土の粒子が地震の揺れで分離し、あたかも水面に浮いたかのように噴き上がる液状化現象は、そうした埋立地では特に起こりやすくなる。

「まずいぞ。上下水道にガス管、電線も影響を受けるかもしれん」

「インフラか」

遠くで救急車のサイレンが鳴っていることに、玲奈が気付いた。

「田野さん、宇堂さん。市内の被害状況をモニターして、急いで取りまとめてください。アストロノーツの画像マッピングがあれば、どこで何が起こってるか把握できますよね。」

「そうか、引き受けた」

「こういう時はSNSに虚実混交した情報があがりがちです。画像や動画の信頼性は僕がチェックしましょう」

お願い、と返す玲奈に向かって、甲斐が手をあげた。

「じゃ僕は依田さんとネット放送を担当します。情報提供や安否確認などを募りながら、明日登呂新聞とも連携して最新のニュースを市民の皆さんにお知らせしましょう」

「ねえねえ市役所にも呼びかけた方がいいんじゃないのいま選挙中で市長が不在なんだから誰が指揮するのかインフラ止まるんなら国や自衛隊にも支援要請か必要になるはずよ」

スワニーから戻ってきた半田も会話に加わる。

「それでは私が市役所に参りましょう」

彼女の意見を受けて、ミスターが立ち上がった。

「公聴広報課時代の部下や同僚が、まだ役所内に何人かいます。近隣自治体にも知り合いがいますから、連絡をとってみましょう。市役所の態勢が判明したらお知らせします」

「ありがとうございます、お願いします。選挙管理委員会の淡路さんには、私から申し入れしておきます。それじゃ、私はゴンに戻って皆さんの連絡を中継することに……」

そこまで言って玲奈は、宙を見つめて固まった。

「どうしました」

声をかけるミスターに振り向きざま、彼女は動揺した表情で呟いた。

「あいつ、あいつは?」


ハンドルが流される。レンジャーは転倒を避けようと必死にホールドしていたが、波を打って上下左右に揺れる道路に耐えきれず、とうとう左の歩道側にアストロボートごと倒れ込んだ。

「痛っ」

スピードはあまり出していなかったが、転倒時に前輪がスリップし、左手首をひねったようだ。

大地の振動は収まっておらず、歩道と車道の境界に隙間が生じて、ブロックが付いたり離れたりして動いている。親子連れやお年寄りが強張った表情をして、歩道にしゃがみこんでいた。

歩道のタイルが何枚も盛り上がり、そこから水を含んだ泥が噴出する。車道の隙間からも黒い水が湧き上がってきた。

「公園、公園に」

レンジャーは泥にまみれながら立ち上がると、歩道にいた人々を植え込みの向こう側に広がる公園に誘導した。マスクの中で着信のアラートが鳴っていたが、とても出られる状況ではなかった。辺りは既に日没を過ぎて暗くなっており、街灯は点いているものの、付近の建物の灯りは消えていた。停電が起きているのかもしれなかった。

気がつくと、揺れは収まっていた。子供たちは泣き、大人もまだ不安そうにどこかに電話をかけたり、周りを見回したりして落ち着かない。


歩道から、田圃のような匂いと共に、灰色をした泥混じりの水が上がってきた。

「ひゃあ」

3歳児ほどの女の子を抱きかかえた若い母親が、ベビーカーをその場に置いたまま公園の中へ駆け込んでくる。こっち、とレンジャーが声をかけ、母子をベンチまで連れて行った。しかしレンジャーは、そこで信じ難い光景を目の当たりにした。

公園内に設けたマンホールの鉄蓋が、1mほども上昇しているのだ。

「な、なんだよこれ」

呆気に取られていると、浮き上がったマンホールの周囲から、じわじわと水が溢れ始めた。

レンジャーはグローブを操作し、周辺の3Dマップをバイザー画面に呼び出した。すぐ近くに、公民館がある。

「皆さん、外は水が噴出します。余震に気を付けて、公民館に行きましょう」

痛む左腕を庇いながら、レンジャーは再び人々を誘導し始めた。


「だめ、呼び出しに応じないな」

半田がスマートフォンを閉じて首を振る。電話もSNSも、アストロノーツでの呼びかけも、すべてレンジャーにつながらないのだ。

「GPSだとアストロボートはさっきまで海浜公園横を移動していて、地震発生と共に停止しました。付近の市民の救助に当たっているのかもしれません」

「あちこちで液状化が起きている。道路の陥没や隆起、ブロック塀の崩落もだ。幸い火災や家屋倒壊の情報は今んとこ入ってないがな。心配すんな、落ち着けばあっちから連絡してくるよ」

フォローする宇堂と田野に、べ、別に心配じゃないですけど、と答えた瞬間、玲奈のスマートフォンに着信が入った。

「ほらな」

けれども、玲奈が目にした発信番号は彼女の知らないものだった。


「はい、もしもし」

「ああ、あ…、やっとつながった」

電話の向こうで話しているのは、若い女性のようだ。玲奈は不審げに眉を寄せた。

「どちら様でしょうか?」

「助けて、市長が。米田候補の選挙カーが、河口に落ちて…」

玲奈はスマートフォンを手にしたまま、勢いよくテントの外に飛び出していった。

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