第67話 失われし刻を求めて
「なんか落ち着くのよね。ここだけは昔から変わってなくて」
一歩の母は、ベンチに腰を下ろすと眼下に広がる明日登呂の街を眺めながら、独り言のようにつぶやいた。
神社の真下には、旧道に沿って明日川が流れている。下流に向かって道を下っていくとアストロプラザやレプトンが並ぶ国道へ、上流側へ進めば古い商店街のある芦川駅へ出る。芦川駅から伸びた鉄道路線は、国道と平行に市内一の賑わいを見せる明日登呂駅へとつながっていた。市で最も海抜の高いこの芦川神社からは、明日登呂駅周辺の市街地と、明日川河口に連なる海浜地区までをかろうじて見渡すことができる。
丘の下を見下ろしている母親とは逆に、一歩は神社の境内の方に気を取られていた。坊主頭の子供が、大きなイチョウの木の根元に寄りかかって座り、スワニーのじゃがいもフライに噛りついている。人々の賑わいの声と、テントから漂ってくる揚げ物の香ばしい匂いが、ベンチまで届いていた。
海側から吹いてきた風が、境内に生えている木々の枝葉をさわさわと揺らす。
一歩は、膝の上のじゃがいもフライに目を落とす。プラスチックパックではない、紙の包みを開くと経木に串が二本入っている。二人連れだったから、美佐江が包みも二つに分けてくれたのだ。カラリと揚がってまだ熱いフライに、一歩は当たり前のように一本に醤油、もう一本にはウスターソースをかけた。
「お父さんと同じ食べ方よね、それ」
「え、そう?」
言われてみれば、かすかにそんな覚えがある。父と一緒に、じゃがいもフライの串を食べた。
あれは、どこだった?
醤油をかけた方から先に噛りつく。
「これ、覚えてる?」
母がバッグから白く光る細長い何かを取り出して、一歩の座るベンチに置いた。
風が揺らすイチョウの葉が、静かな音をたてる。
玩具の剣だった。
瞬間、一歩の頭の中で記憶がスパークする。ずっと感じていた、懐かしさともどかしさが入り混じった奇妙な感覚の塊が、具体的な形になっていく。
桜が咲いていた。その時大須賀一歩は、まだ5歳だった。
明日川と名前が変わっても、周りの大人たちは変わらずその川岸を芦川通りと呼んでいた。春が訪れると、日当たりの良い南側から桜並木が順繰りに開花していく。満開になると若かった父母や同じ幼稚園に通う友だちと、連れ立って川沿いに出かけた。まだ護岸されていない、葦や名も知らぬ草が生い茂る芦川を上から眺めては、魚がいた、鷺がいた、と一歩は大騒ぎした。
花見客を当て込んで、向かい側にある芦川神社の鳥居の横には、縁日のように屋台が出たものだ。縁日のテキ屋と違っていたのは、ほど近い芦川駅前商店街の組合が、出店を担っていたことだ。甘味屋はお汁粉を、酒屋はビールとサイダーを。お惣菜のスワニーも、自慢のじゃがいもフライを長テーブルに並べていた。
スワニーのじゃがいもフライは父の好物だ。一本目は醤油で、二本目はウスターソースで食べる。味覚が変わって、まるで違う食べ物のように新鮮なおいしさが味わえるんだ、とそれを口にする度に父は言った。一歩はそんな父を見て、子供みたいだと、子供のくせに思っていた。
その年の冬、突然に桜がもう見られなくなる、と知らされた。
街の開発に伴い、道路の整備と明日川の護岸工事が始まり、沿道の桜並木は軒並み伐採されることが決まったのだ。市の中期的な開発計画に盛り込まれていたその事案を、住民はほとんど知らないでいた。行政のやることは、当時は誰もが行政にお任せだったのだ。
「そんなのやだ」
今年もみんなで桜を見に行く。そう思っていた一歩は、悲しくなった。桜もそうだが、みんなと出かけて過ごす時間が、幼い彼にはとても大切だった。伐採計画を知らされた夜は、悪い怪人が黒マントで桜並木を覆い隠し、一本残らず枯らしてしまう夢を見た。
翌朝、「仮面レンジャー」がテレビの中で、力を合わせればどんな悪でも倒せる、と叫んでいた。君が呼べば、ヒーローはいつでも現れる、と。
テレビのようにリック、カイト、クウヤの三人が揃ったら、仮面レンジャーが来て桜の木を護ってくれるかもしれない。5歳の一歩は、仲の良い幼稚園の友だち二人を引き連れて、桜並木の見廻り隊を結成した。それぞれ赤、青、緑のお面と、同じ色の柄を持つ揃いの聖剣「ジェネソード」を携えて。
休みの日には、園児三人の父や母たちも見廻り隊に加わった。子供らの悲壮な決意とはうらはらに、それは穏やかで楽しいピクニックのようだった。一歩の母は、彼が描いた桜の絵に「芦川通りの桜を伐らないでください」と文字をつけた、手描きのポスターを用意してくれた。そのポスターを掲げて、桜の木の前でみんなで座り込みをした。
ネットもSNSもない時代、彼らの活動はあまりに非力で個人的で、日々ひっそりと、ささやかに続けられた。
一歩やその友だちの両親は、当時の市長に伐採撤回の嘆願書を送っていた。けれども、街は未来への希望や発展への掛け声が強く飛び交うさなかにあり、行政にその小さな声が届くはずもなかった。
ヒーローは、現れなかった。
芦川通りを行く見廻り隊を、何台ものトラックが追い抜いていく。チェーンソーが次々と幹に食い込み、花芽をつけたまま沿道の桜はその年ついに開花することなく、無残に伐り倒されていった。
一歩は大泣きした。こんなことが、あっていいのかと、川沿いの道にただひたすら、立ち尽くしていた。
そして、そのつらい悲しい人生最初の挫折の記憶を心の底に封印し、厳重に蓋をした。そうしなければ、幼い精神が保たなかったのだ。
そのすべてを、一歩は今思い出していた。醤油をかけたじゃがいもフライの味。玩具の剣。神社の景観と、川が運んでくる水の匂い。風に揺れる木々のざわめき。
それらが連なり、フラッシュバックして一歩の心の記憶の蓋を開け放った。
「やっぱり、今まで忘れてたみたいだね」
母の声が、一歩を現実に引き戻した。
「あいつはすごい、ってお父さん言ってたのよ。5歳なのに、自分から行動して、桜を護ろうとしたって。あんなに大泣きしたのに次の日にはケロッとして走り回って、あいつ大物だぞ、って。嬉しそうに。だから、あんたがみんなの期待を背負って選挙に出るのも、きっと喜んでいるはずよ」
川から上がってくる風が、頬を撫でる。自分の両眼から涙が流れ出していることに、一歩はそのとき初めて気が付いた。
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