第7話 誰? 八千五百万円の女

 市長選挙討論会から遡ること、一週間前。

「このショッピングセンターの下には、八千五百万円が埋まっているの」

 五箱分のポケットティッシュを配り終えて建物裏のベンチで休憩していた大須賀一歩に、女がいきなり話しかけてきた。


「何ですって?」

口から離した拍子に、飲んでいた缶の縁からコーヒーが数滴、着込んでいるパンダのぬいぐるみの膝に落ちた。一歩はジーンズのポケットからハンカチを出そうと手を後ろに廻したが、ポケットはパンダの尻の内側にあった。

「すいませんが、ハンカチかティッシュ持ってませんか」


 国内の動物園で仔パンダが生まれて以来大人気のパンダのぬいぐるみは、バイト先の会社の所有物だ。汚したらクリーニング代をバイト代からさっぴかれてしまう。

 女は無言で、一歩にティッシュを差し出した。「レプトン明日登呂店・OPEN記念セール実施中!」と赤文字で書かれている。さっきまで店頭で一歩が配っていたものだ。

 コーヒーはパンダの足、黒い部分に垂れ落ちたため、シミにはならずに済んだようだ。


「建設工事の途中で、地中から埋まったゴミと一緒にPCBや六価クロム等の有害な化学物質が見つかったのよ。その撤去運搬費と処理費用で、当初予算より八千五百万円が余計にかかったの」

 その話、俺と何の関係があるのよ。ティッシュを返しながら女の顔を見上げる一歩は、ハリボテの大きなパンダの頭をベンチの脇に置き、自前の頭にはタオルを巻いて、首から下は全身ぬいぐるみという出で立ちだ。ティッシュを持った手は五本指に分かれているが、どういうわけか手のひらにふわふわの肉球がついている。これのおかげで、缶コーヒーすらまともに持つことができない。


 何か美人がいるな、と思ってベンチに座ってぼんやり眺めていたら、彼女は一歩の目の前までまっすぐ歩いてきた。そうして唐突に地中に埋まった八千五百万円の話をし始めたのだ。

「えっと、そういうの、俺よく分かんないです。他の人にしてくれますか。この後また五箱分配んないといけないんで」

 空き缶と丸めたティッシュを自販機横のゴミ箱に投げ込み、一歩は立ち上がってパンダの首を持ち上げた。これをかぶると、とたんに視界が狭くなるのだ。ほぼ正面しか見えない上に、うまく距離感がつかめないため頭がいろんなところにぶつかってしまう。通用口のドアも通り抜けられないので、ティッシュを配る店舗入口には表側から戻るしかないのだ。再開する時間まであと五分くらいはあるのだが、話がめんどくさくなりそうな予感がして一歩は休憩を切り上げることにした。


「これはスチール缶専用。缶とティッシュは分別しなきゃダメよ、大須賀さん」

女が一歩の名を呼んだ。思わずふりむいた拍子に、パンダの後頭部がコンクリの壁に擦れて音をたてた。

「あの・・・」

「大須賀一歩、三十一歳、明日登呂市内在住。俳優志望で、大学卒業後アルバイトしながらオーディションを受けては落っこちる日々。所属事務所を昨年解雇。最近は派遣会社経由でパンダやトラのぬいぐるみ専門のようね」

 なんだこいつ。なんで俺の事を知っているんだ。俺と同い年くらいに見えるが、こちらには全く見覚えがない。友達でも、同級生でもない。仕事先で会った記憶もない。そもそも、俺には女友達はいないのだ。やかましいわ。


 心の中で自分にツッコミを入れつつ、一歩は反撃を試みた。

「それ、個人情報ってやつですよね。いったい何で」

「そちらの仕事が終わったらまた来るわ。私はあなたをリクルートしに来たの」

 リクルートって、どういう意味でしたっけ。ダメだ、タダで配ってるアルバイト情報誌しか思い浮かばない。なんか最近、どんどんバカになってる気がするぞ、と一歩は思う。

 そんな一歩に向かって、「あなたを、この街の市長として雇いたいんだけど。どう?」

 女は確かにそう言った。


 はい???

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