第76話 『我が国の基本的考え方』を知っているか

「いま伯爵がお話になられた内容は、わが国でも巷間よく言われている言説です。現在の国際社会情勢に不安を持ち、このままで本当に大丈夫なのだろうか、と心配する人々の気持ちを表す、ある意味代表的な考え方だと私は思っています」


公の場で第三者から「伯爵」と呼ばれたはっとりは、目を見開いて喜んでいる。

「この考え方には、反駁したい点がいくつもあります。しかし今回は他人の意見を批判せず、というルールが定められている。よって、私は異なる角度からの私の見解を申し述べることで、批判に代えようと思います。それに、この種の議論ではよく見られることですが、ある一つのトピックについて意見を戦わせようとすると、反論が細分化されて部分的な異論の応酬に陥ったり、用語の使い方をめぐってすれ違ったりと、本来の意図から逸脱してしまうことが少なくありません」


「ちょっと待って。すいませんけど、お話が少し難しいです。反論が細分化したり、本来からズレたりっていうのは、たとえばどういうことでしょうか」

一歩は、このリモート参加者がブレストの前提条件を理解してくれていることに安心しつつも、いささか理屈っぽい物言いが気になった。多くの人に理解してもらうためには、できるだけ表現をわかりやすくしてもらう必要があるからだ。


「ああ、失礼しました。細かい論点にとらわれてしまうと、全体像の本質が見えなくなってしまう、という意味です。たとえて言うと、私が小学生の頃、よく校庭で友達とサッカーをして遊びました。今思えば、とてもサッカーと呼べるようなものではなかったと思います。ただボールが飛んで行ったところをめがけて全員が集まり、ボールの周りに団子のようにまとわりつくんです。本当は、グラウンド全体を見渡したうえで各自がポジションに付き、パスをつなげて相手側のゴールにシュートしなければなりません。そのためには基本のルールを理解する必要があります。また、チームの力量を把握したり、相手チームの動きを読んだり、フィールドの状況を判断したりする眼も必要です。これと同じで、防衛や軍縮の問題は『ミサイルを撃たれたらどうするんだ』とか『自衛隊は米軍の艦船を護らないのか』などの局所的な議論にとらわれると、『どうやって安全保障や世界平和を実現するか』という本質から遠ざかりかねないんです」


わかりやすい喩えだ、と一歩は思う。これなら発言を任せても大丈夫そうだ。

「わかりました。では具体的にお話を続けてください」

「承知しました。まず私たちは、私たちが住む日本という国が国際的平和を実現するために、どういう態度を表明しているのかということについて、知っておく必要があります」

そういうと、黒ポロシャツの男は日本政府・外務省のwebサイトを画面にシェア表示した。

https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/page22_000407.html

「これは『我が国の基本的考え方』と題された、日本政府が示している安全保障政策の基本的な考えです。ご覧になったことがある方は、いらっしゃいますか」

会場に集まった人々は互いに顔を見合わせたり、苦笑いしながら首を傾げたりしている。見たことがある者は、ここにはいないようだ。はっとり卿も両掌を上に向け、首を横に振っている。


「政府は国家としての公式の見解を、ここで示しています。箇条書きにして整理しましょう。まず前提として、国際社会の現状をこのように分析しています」

彼は再び、画面にテキストスライドをシェアした。


・普遍的価値やそれに基づく政治・経済体制を共有しない国家が勢力を拡大し、国際社会におけるリスクが顕在化している

・他国の国益を減ずる形で自国の国益を増大させることも排除しない一部の国家が、軍事的・非軍事的な力を通じて、自国の勢力を拡大し、一方的な現状変更を試み、国際秩序に挑戦する動きを加速させている

・その結果、現在の国際的な安全保障環境は、国家間の関係や利害がモザイクのように入り組む、複雑で厳しいものとなっている


「そして、では日本はどうすべきだと考えるのか。そのひとまずの答えが、これです」

・経済力、技術力、情報力など、我が国の総合的な国力をその手段として有機的かつ効率的に用いて、戦略的なアプローチを実施していきます

「ここには、『軍事力』という言葉は出てきません。『我が国の総合的な国力』の中に、軍事力は含まれていないのです」

「馬鹿を言うな。では何のための自衛隊だ」

はっとり卿が声をあげた。

「はっとりさん、とりあえず話を最後まで聞いてみましょう。個別の議論になると全体が見えなくなる、と彼も言っています」

一歩の仕切りに、はっとりは「むむ」と一言発すると静かになった。


「伯爵がおっしゃられた自衛隊については、このように書かれています」


・日本の自衛隊は、1991年にペルシャ湾で機雷の掃海を行って以降、国際社会の平和を確保するために様々な貢献を行っています。国連PKO、国際緊急援助活動、インド洋上での補給支援活動、イラクでの人道復興支援活動はその一例です。近年では、アデン湾における海賊対処活動や2013年のフィリピン台風の際の1,100人規模の自衛隊員による救援活動などを行い、国際社会の信頼を得ています。


「同時に、軍縮と不拡散については、こうも言っています」

・日本は、「核兵器のない世界」の実現に向け、「軍縮・不拡散イニシアティブ(NPDI)」の主導、国連総会への核軍縮決議の提出、包括的核実験禁止条約(CTBT)等の発効に向けた働きかけなど、国際社会による核軍縮・不拡散の議論を主導しています。また核セキュリティ、小型武器を含む通常兵器の分野でも中心的な役割を果たしています。


彼は、書かれている文章を丁寧に読み上げていった。

「すみません。どうしても皆さんに基礎知識として共有していただきたかったので、説明的になってしまいます。どうぞご容赦ください。そして、話は『積極的平和主義』という新たなキーワードが中心になってくるのです」

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