第9話 カレーハウスは秘密基地

 車は走ってきたメインストリートを抜け、右折して芦川駅前の中心街に入った。いや、正確にはかつて「中心街であった」ところだ。この辺りは三十年ほど前までは、地域で最も活気のあるエリアだった。五百メートル以上にわたって伸びるアーケードには様々な種類の店舗が軒を連ね、バスや車が行き交い、子供から老人までたくさんの人々で溢れていた。夏祭りには、町内が競って鮮やかな七夕飾りを軒先に出品し、明日登呂のみならず近隣都市からも見物客が何千何万と訪れた。


 もっとも、一歩自身はそんな時代を知るよしもない。彼が物心ついた頃には、中心部にあった大型スーパーはとっくに撤退して建物だけが廃墟のように残され、やがて気付くといつしか取り壊されて駐車場になっていた。買い物客は市内のあちこちにできた小型スーパーや郊外のショッピングモールに分散し、旧駅前商店街は空き店舗だらけになった。商店街は一斉セールなど手を打つものの相変わらず買い物客は戻って来ず、テナントの誘致も思うように進まなかった。以来、街はその中心部を新しくできた明日登呂駅周辺に譲った形になっている。


 旧商店街の一角、古いビル裏の駐車場に車を停めると、彼女は一歩に顔を向けて言った。

「着いたわ。降りて。」

 一方的にしゃべったまま、とうとう名乗ることもなく彼女はキーを抜き、青いショルダーバッグだけを持って車を降りた。

一歩も続いて車を降り、促されるままビルの表側に回る。一階はどこの街にもある携帯電話ショップになっていた。一歩が子供の頃は瀬戸物屋が店を開いていた場所だ。建物の端に二階に上る階段があり、脇に「カレーハウス・ゴン」という古びた電飾看板が出ていた。この店だけはずっと長い間商売を続けている。こんなところでよくやっていけてるな、と一歩は思う。カレーは特別うまい訳でも、まずくもなかった記憶がある。もちろん、そんなに流行ってはいないはずだ。


 女は「こっちよ」と先に階段をずんずん昇って行った。階段やエスカレータは男性が先に昇るのが確かマナーだったはずだが、と仕方無く後ろから着いて行くと、昇りきったところに「ゴン」の扉があった。女は当然のように扉を開けて中に入って行く。ドアの内側につけられた小さな金属製の釣り鐘が、からから、と鳴り響いた。スタッフに客の来店を知らせるアナログな装置だ。昭和かよ、と一歩は心の中で思う。

 カレー屋のマスターは、中には居なかった。それどころか、店員も客も誰もいない。木製のカウンターには五〜六客の椅子、四つあるテーブル席にはギンガムチェックのビニールクロスがかけられている。カウンターの向こうは調理場で、コーヒーサーバの横にはゆらゆら揺れてコップの水を飲むトリのオブジェが置かれていた。確かに、昭和にタイムトリップしたかのような風情である。


「何してるの」

 見ると、女は突き当たりの大きな作り付けミラーに向かって「壁ドン」していた。ミラーは若干曇り気味で、端が金属サビに浸食されている。上部には黒ずんだ金文字で「文具は新正堂」という文字とともに、市外局番無しの電話番号が書かれていた。

「昭和か・・」

「しつこいっ」

 つい口に出した一歩に、女が重ねた。ん?言葉に出して言ったのは、今のが初めてなんですけど。あなたエスパーですか?


 壁ドン女がミラーを押すと、ミラーは時代劇の忍者壁のごとく、向こう側に開いた。ええっ、隠し扉?


 忍者扉の向こう側は、意外にも広い部屋になっていた。畳に換算すると十二帖ほどあるだろうか。カレー屋の店内とはまったく違うたたずまいだ。中央には十人程度が輪になって囲めるサイズの楕円テーブルが置かれている。壁際は片側が書架になっていて、ハードカバーや新書、コミック、ブックレットなどが整然と収まっている。数百冊はありそうだ。本のほかにファイルもたくさんある。背表紙には「明日登呂市基本計画」「自治基本条例資料」「パブリックコメント」などと書かれていた。


反対側の壁には、幅一メートルほどもある大きな白い紙が天井から床まで貼られている。壁紙ではない。模造紙だ。床に近い部分は押しピンで止めてあり、天井側の方は巻き取りロールになっている。台所ラップを紙にして巨大化したような感じ、と言えばわかるだろうか、下方向に引っ張ると新しい紙がロールから繰り出される仕組みだ。いま引き出されて壁に貼られている紙には、様々な図や文字が手書きで書き込まれていた。ポストイットと呼ばれる色とりどりの糊つき付箋紙も数多く貼られている。それらにももれなく、サインペンで書き込みがなされていた。窓際に置かれた広めのデスクにはデスクトップパソコンが1台とノート型が2台、タブレットPCとスマートフォンもいくつかあった。デスクの横にはソファーとクッション。そしてさらに別室に通じているのか、奥に向かってドアがもうひとつあった。


「さて、我らが要塞へようこそ、大須賀一歩さん。改めて『明日登呂の未来を考える市民の会』戦略顧問の、大川玲奈です」

 彼女は初めて自らの姓名を名乗ると、一歩に向かって右手を差し出した。

「さっきも言ったように、あなたには今度の明日登呂市長選挙に、候補者として出馬してもらいます。これはもう決定事項なので、断る余地はありません。よろしくね」

「ちょっ、ちょっと待ってください。いったいどういうことですか。そもそも、何で僕が市長選挙に出なきゃならないんですか」

 そのときふいに奥のドアが開いて、誰かが部屋に入ってきた。


「やあ大須賀さん、大変お久しぶりでございます。お待ち申し上げておりました」

「え?あなたは、ミスター。ミスター小尾じゃないですか」

 思いがけない人物の登場に、一歩は思わず声をあげた。ミスターこと小尾は、十二年前に一歩がアルバイトをしていた時の直属上司だった男だ。スリムな体型にきちんとした服装、執事を思わせる丁寧な言葉遣いと立ち居振舞い。仲間から当時「ミスター」と呼ばれていたそのキャラクターは、一歩の記憶の中の人物像とまったく変わっていなかった。

「こんなところで何やってるんですか。役所勤めは?」


 一歩の昔のアルバイト先というのは、実は明日登呂市役所だ。隣接する大都市の私立大学に通っていた当時、一歩はたまたま学内掲示板に載っていた「着ぐるみ要員急募」の文字を見つけてこれに応募し、見事ご当地ヒーロー「アストロレンジャー」の“中の人”として採用されたのだった。採用の理由は、彼に適性があったから、という訳ではもちろんなく、公募に応じたのが大須賀一歩ただ一人だったからだ。この年、それまでの現職を破って四十二歳で初当選した米田市長は、新しい政策を次々と展開したのだが、その一つがご当地ヒーロー「アストロレンジャー」による市民と行政の交流推進というものだった。


 市町村が「ゆるキャラ」と呼ばれる、二頭身や三頭身の珍妙なオリジナル・キャラクターづくりを競って導入し始めるより少し前、戦隊もどきの地方限定ヒーローが、それぞれの地域で人気を博していた時代があった。米田新市長体制となった明日登呂市もそれに倣って、自前のヒーローを誕生させる運びとなったわけである。

 時を同じくして新設された広報公聴課という部署の課長職も一般から公募され、こちらは応募者多数の中からミスターこと小尾和人がその任に選ばれた。


 かくしてアストロレンジャーとなった一歩は、全身を覆うタイツとヘルメット型のマスクという、ヒーローにありがちな衣装を着込み、ミスターと共に一年の間様々な市の行事に参加した。花火大会を盛り上げたり、市民と共に河川敷清掃に精を出したり、もとはと言えばあれが役者へと人生の道を踏み外す、いや大志を抱くきっかけとなったのだ、と一歩は思う。


「地方公務員とは街の執事です」が口癖だったミスターは、元は一流ホテルに勤務する本物のコンシェルジュだったと噂されていた。広報よりも公聴に重きを置くミスターは、市長の思いつき企画だった「アストロレンジャー」のマネジメントをそつなくこなしながら、市政に市民の声を反映させるための制度整備にその後も東奔西走していたはずである。


「市役所は四年前に退職致しました。市民の皆様の声を活かしていく仕組みづくりを、もう一度民間の側から考えてみたくなりまして。ちょうど店をやめたいという知人からこのカレーハウスを譲っていただきましたので、今はここを拠点に『明日登呂の未来を考える市民の会』という団体を主宰しております」

「はあ、ミスター転じてマスターになった訳ですか」


玲奈が冷たい視線を一歩に送る。

「くだらない駄洒落を聞くために来てもらったんじゃないのよ。市長選の告示は一週間後。もう時間がないの」

「そう、それですよ。この人、オレを市長として雇うとか言ってるんですけど。いったいどういうことなんですか」

 ま、お座りになって、とミスターはテーブル席の椅子を勧めた。

「お聞きの通り、大須賀さんに来ていただいたのは今度の市長選に出ていただく準備をするためです」

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