白と黒④

「おーい、なにやってんだー」


 カツカツと編み上げの軍靴を鳴らしながら、蒼羅そらは大儀そうな調子の声で呼びかける。振り返った三人の男たちは顔をしかめた。

 雰囲気がお花畑のそれとは打って変わり、目に見えるほどの怒気となった。


「んだぁ? ガキは引っ込んでな」


 手前に居た大柄な男がドスの利いた声とともに、のしのしと巨体を揺らしてやってきた。ご丁寧にも姿勢を低め、鼻先まで顔を近づけてくる。

 本人は凄んでいるつもりだろうが、それぞれの部位が失敗した福笑いの顔のように見えて、笑顔に拍車が掛かる。思わず噴き出さないだけでも褒めてほしいものだ。


「殴られてぇか、えぇ?」


 そんな蒼羅の対応を見て苛立ちが増したのか、額に青筋を立てた巨漢は、ぱきぽきと指の骨を鳴らし始めた。


「やーちょっと待った、そいつぁ勘弁。俺、喧嘩とか嫌いだからさ。なるべく穏便に済ませたいんだけど」


 苦笑しながら諸手を挙げると、巨漢はなにやら得意げな笑みを浮かべた。どうやら降参と取ったらしい。

 こちらとしては、猛る野獣をどうどうと宥めているつもりなのだが。


 巨漢の影からこちらを覗き込んでいたひょろ長の男は、蒼羅の服装を見て目を丸くした後、面長の顔を歪めて小さく噴き出した。


「なんだなんだぁ? 近頃はガキまで警察ごっこかァ?」


 小馬鹿にした調子の声が耳に入る。

 自分の背格好では軍服を着ているというより着られているようだ―なんて義理の姉に言われたことを思い出す。

 内心に芽生えたちょっとした苛立ちを封じ込めると、つとめて軽い声を上げた。


「ごっこじゃあないさ、本職だ。見くびってもらっちゃ困る」


 ―まだ見習いだけど、という言葉は飲み込んでおいた。

 今はこのほうが都合が良いだろう。

 『旗本衆はたもとしゅう』には警察機関として治安維持を行う側面もある。

 しかし訓練兵の軍装には、身分を示す徽章きしょうが一切ないのだ。


 だが、軍装と軍刀の所持こそが警察機関の象徴として見られる世間だ。細かな徽章の有無まで気にする一般人はそうそういない。


「お、おい……『旗本衆』に手を出すのはヤバいんじゃないのか……?」


 巨漢で視界を覆われた蒼羅からは見えない三人目が、口先だけの嘘を信じきって狼狽した声を出す。きっと青ざめているのだろう。

 しかし巨漢はそれを鼻で笑うと、勢い良く腕を振り上げた。


「ハッ、知ったこっちゃねぇ!! チクられるまえに伸しちまえば良いだけの話だ!!」

「うそぉ」


 蒼羅は唖然あぜんとする。どうやら殴って気絶させる腹積もりらしい。

 子供のふざけた仮装ではなく、(見た目だけは)正規の軍人と分かった上でこれをやろうとしているのだから始末に負えない。


「ちょ、ちょっと待っ―」

「うるせぇ!!」


 言葉を遮るように大上段から振り落とされる拳。

 これだから血の気の多い奴は苦手だ―辟易へきえきしながら蒼羅も動く。デカくて速いが、しかし見切れないほどではない。

 半身になって拳を避けながらえて男の懐へ入り込む。ついでに真横を擦過する腕を取り、その勢いを利用し背負い込むようにして投げ飛ばす。


「おらよッと!」


 蒼羅を支点に巨体がぐるりと一回転。

 宙を舞った巨漢の身体は、放物線の終点に積み上げられていた木箱を圧し潰し、破砕音とともに土ぼこりを盛大に巻き上げた。


「っし、一丁あがり」


 埃を払うようにぱんぱんと手を叩きながら振り返る。

 ひょろ長の男と、ようやく姿が見えた三人目―小柄で気の弱そうな男が、口を開いて唖然としているのが見えた。奥に少女の姿が見えるも、目深にかぶった市女笠で目鼻立ちまでは分からない。


 二人の反応を見るに、おそらくあの巨漢がこの三人の中で一番腕っ節の強いやつだったのだろう。

 頭目を失ったことで逃げていくと踏んでいた蒼羅だったが、直後にひょろ長の男が取ったのは、その予想と真逆の行動だった。


「―野郎ッ」


 表情に焦りを見せながらも、ひょろ長の行動は素早かった。懐から短刀を取り出し市女笠の少女の左後ろに回ると、肩を掴もうとしながら叫ぶ。


「こ、こいつがどうなっても―」


 切羽詰せっぱつまった悪人の常套句と常套手段。人質を取る気だ。

 蒼羅は己の甘さに小さく歯噛みする。


 ―マズい、助けに来ておいて怪我をさせるわけにはいかない。


 しかし、ひょろ長の男が少女に触れることはなかった。

 心底から鬱陶しそうにため息を吐いた少女が左手首を軽く振る。

 鞘鳴りにも似た鋭い音を立てて、棒状の物が着物の袖から飛び出した。それを逆手に握ると、脇を通すようにして後ろへ腕を引き、男の鳩尾みぞおちへと勢いよく突き立てたのだ。


「かふ……っ!?」


 ひょろ長の男が呻きながら後ろへよろめくと、少女は市女笠の布を翻しながら振り返り、その脛を思い切り蹴飛ばした。

 仰向けに倒れ、したたかに背中を打ち付けたひょろ長が最後に見たのは、自分の顔へ降ってくる下駄の底だろう。


「―触んないでよ」


 少女は冷たい声でそう小さく呟いた。

 蒼羅と少女が残った小柄な男に視線を向けると、男は雨に濡れた仔犬のようにやおら震えだし、裏返った声で叫びながら、気絶した二人を置き去りにして逃げていった。

 あまりに速い男の逃げ足に、蒼羅は口を開けたまま、その姿が見えなくなるまでただただ見送ることしか出来なかった。


 蒼羅は思い出したように振り返る。

 いつの間にか市女笠を取り去った少女は、肩の力を抜くように息を吐き、うん、と伸びをしていた。手に握られていたはずの得物はすでに見当たらない。

 ここに来てやっと、少女の容姿がはっきりと見て取れた。


 まず眼を引いたのは髪色だった。

 肩甲骨のあたりをくすぐる長さまで伸びたそれは、根元から毛先まで全てが。曇りなく混じり気の無い純白は、日光に当たると溶けて消えたかと思うほどに深い艶を見せた。


 やや上向きに吊った猫目は、可愛らしさの中に冷たい棘を潜ませる。小さな鼻に薄い唇と、整った顔立ち。

 どこか人を寄せ付けない冷徹な雰囲気と相俟って、可愛いというより『綺麗』という印象が強かった。

 肌に塗られた白粉おしろいと目許に引かれた紅が、その美しさをより妖艶に引き上げている。


 なるほどチンピラが眼をつけてナンパするのも分かる。世が世なら、きっと国が傾くほどの別嬪べっぴんだ。

 華奢な身体を包むのは、上質な白色の着物。内に鮮やかな赤襦袢を着込み、その重ね目は桜の花を思わせる薄桃に彩られる。

 膝上まで切り詰められた赤い女袴の裾からは、白く細い脚がすらりと伸び、爪先には朱塗りの飾り下駄。


 伸びをし終えた少女は、小さく上擦った息を漏らしたあと、なにかに気付いたように首を巡らせ、やがて冷めた目で蒼羅を見据えた。


「……なに?」

「あぁ……いや、お見事」


 怪訝そうな声をかけられ、蒼羅は狼狽うろたえながら言葉を返す。

 まさか見蕩みとれていましたなんて言えるわけも無い。

 誤魔化すように拍手とともに労うと、褒められて悪い気はしないのか、少女は小さく口角を上げて笑んだ。


「助けて頂いて、ありがとうございました」


 少女はそう言って、こちらに深々と頭を下げてくる。白い絹髪がその動きに合わせてしゃらりと揺れた。

 育ちの良さが垣間見える、きっちりとした折り目正しい礼だ。


「意外と親切なのね、ケーサツさん」


 蒼羅は顔を上げた少女の言葉に困惑する。―意外と?


「てっきり、あのチンピラどもの仲間かと思ってたんだけど」

「なんでだよ!?」


 蒼羅が少々食い気味に反論すると、少女は驚いたように眼を丸くしつつも一言。


「—顔がそれっぽいから」


 思案することも躊躇ちゅうちょすることもなく投げられた言葉に、蒼羅の心は深く深くえぐられた。雷に打たれたように硬直したあと、喀血かっけつするように息を吐いて左胸を押さえる。


 ―やっぱり俺って悪人面なのか。


 そんな彼を見て不思議そうに小首を傾げる少女の視線を感じ、客観的に見てあまりに滑稽こっけいな自分に気付いた蒼羅は、咳払いをひとつ。

 さて、気を取り直して。


「しっかし、見事な技だった。速すぎて見えなかった」


 改めて拍手を送りながら近付いていくと、少女は咄嗟とっさに右腕をかばうような所作を見せた。

 それを見逃すほど蒼羅も鈍くは無い。

 足を引いて離れようとする少女の右腕を素早く掴んで捻り上げる。先ほど男を気絶させたとき、得物を握っていたほうの腕だ。


「―ただの棒にしか、な」


 袖をまくって露わになったその手に握られていたのは、鞘に収められた小太刀だった。最初は模造刀の類かと思ったが、この重量はどう考えても真剣のそれだ。

 何故、この少女がこんな物騒なものを持っているのか。


「なぁお嬢さん、『廃刀令はいとうれい』って知ってるか?」


 『廃刀令』―幕府が打ち出した政策の一つだ。

 泰平の世となっても減らない辻斬りや人斬り沙汰を撲滅するため、民間人の帯刀を固く禁じ、幕府直轄の警察機関である『旗本衆』にのみ許すことで、治安の安泰を試みた。

 制定された当時は、これを『刀狩かたながり』と揶揄やゆする連中と幕府の間で一悶着あったらしいのだが―それはまた別の話。


「一般市民が刀を所持しているのは重罪にあたるわけなんだが……ちょっとご同行願えますかね?」


 凄むのは苦手なので、とりあえず愛想笑いで様子を見ると、少女はばつの悪そうにぷい、とそっぽを向き表情を曇らせる。


「……お、玩具おもちゃよ玩具。よく出来てるでしょ」

「玩具かどうかはこっちで判断する」


 子供のような言い訳をしてきた少女に少し強い語調でそう言うと、自分の非を認める気になったのか、少女は肩を落として溜息をつく。

 と、一転してぐいっと顔を近づけてきた。

 鼻先、甘い吐息が間近にかかる距離にまで近づく。相手の瞳に映った自分の間抜け面まではっきりと視認できるほどに。

 不意に鼓動が高鳴り、一瞬、呆然としてしまう。―本当に、綺麗だ。


 その一瞬が命取りだった。


 鈍い音と共に、凄まじい痛みが脳髄を焼いた。

 例えるならば……いや例えようもない。女性には決して理解できない彼岸の痛みに思わず息を飲む。

 あまりの激痛に悲鳴すら出ず、股間を思い切り蹴飛ばされたのだと気付いたのは、地面に崩れ落ちてうずくまったあとだった。


「うっ、ごおおぉぉぉ……!!」


 怨嗟えんさにも近い呻き声を上げながら首を巡らすと、市女笠を被り直した少女が走り去っていくのが見えた。

 振り向きざまに目が合うと、悪戯いたずらっぽく笑った後、右眼の下を引っ張り小さく舌を出してあっかんべー。


「くっそ、待て……!!」


 悶絶している暇は無い、逃げられてしまう。

 痛いやら情けないやらで少し泣きそうになりながら、蒼羅はどうにか立ち上がり、角を曲がって逃げていってしまう少女を追い掛ける。

 少女が逃げた先は大通りにつながっている。通りを行き交う人々の中に紛れ込むつもりだろう。だがあの白髪、あるいは市女笠はどうしようもなく目立つ。あの身なりで雑踏に溶け込めるはずがない。


 そう結論づけたのと、蒼羅の足が大通りへ踏み込んだのはほとんど同時だった。

 足を止めて辺りを見回す。通りがかる人々は時折、ぎょっとした様子でこちらを見てきた。

 確かに、目の下にくまをこしらえた人相の悪い軍人が、いきなり走ってきて通りを見回していれば、何事かとうたぐるのは当然なのだろう。

 が、今はそんなことを気にしていられない。

 どこだ、どこだ、どこに行った―


 しかしいくら探しても、白髪どころか市女笠すらも見当たらなかった。

 人でごった返す通りを行き交うのは散切り頭、編み笠を被った男、町娘、籠を担ぐ二人組、商人―いつもの日常と変わらぬ顔ばかり。


「逃げ足の速い奴め……」


 蒼羅は大きなため息とともにがっくりと肩を落とす。

 そのときだった。


「―うあぁあぅあああああああッ!!!」


 悲鳴が響き渡った。乱暴に蹴り飛ばされた子犬の鳴き声に似たそれが耳を打った瞬間、蒼羅は迷わずその音の方向へ駆けだしていた。

 走りながら思い出す。この道はあの小柄な男が逃げていった方向だ。

 あのあと妙な暴漢にでも絡まれたか、自業自得というものだろう。人様に迷惑をかけていた奴を助けるのはしゃくだが、だからといって見過ごすわけにもいかない。

 奥に行くに連れて入り組み始めた路地裏を駆け抜けながら、蒼羅は自分のお人好しっぷりに苦々しい表情を浮かべた。


・・・・・・


「…………このあたりのはずだ」


 細い十字路でちょうど立ち止まった蒼羅は、風に乗って鼻に届いたある“臭い“に顔をしかめた。

 —血の臭いだ。

 剣呑に目を細め、蒼羅は辺りを用心深く見回していく。やがて十字路の左奥にあったものを見つけて、小さく息を飲んだ。


 流血によって黒ずんだ土の上にあったのは、仰向けに倒れた死体だった。

 それもただの死体ではない。四肢は両の肘と膝の関節から先が絶たれ、その心臓には墓標のように刀が一振り突き立てられている。


 なかでもひときわ奇妙なのが、死体の顔が一枚の紙切れで覆われていることだった。まるで死人の顔を白布で伏せるように。

 そしてなんの意図か、そこには菩薩の仏画が描かれている。

 変わり果てた姿だが、背丈から推察するにさっきの小柄な男と見て間違いない。


「…………なんだ、これ」


 異様な死体を前に、蒼羅がようやく言葉を絞り出すと、悲鳴を聞きつけた屯所とんしょの警官と、好奇心旺盛な野次馬で辺りが騒がしくなりはじめた。

 意識が遠のき視界が暗転しそうになるのを、蒼羅は唇を噛み締めて耐える。


 ―今は思い出してる場合じゃない。


 蒼羅は臓腑ぞうふからせりあがる吐き気をどうにか飲み下し、ふらふらと力なく、路地裏を埋め尽くす人混みに紛れるようにしてその場を後にした。

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