傷と過去⑦

『誰かの死を覚えていれば、二度と同じことが起きないように動ける』

『俺も多くの人が殺されるのを見てきた。だから俺は、一人でも多く生かすためなら命だって放れる』

『誰かのために自分の命を張る覚悟もない奴に、誰が救えるって言うんだよ』


 ―いつかの夜、宿舎近くの道場で蒼羅そらと交わした会話を思い出した。


 あのときは、ただの無責任な馬鹿だと思った。

 無鉄砲な命知らずだと思った。


 だから朱羽あたしは否定した。拒絶できた。

 ―それが、どれだけ悲壮な覚悟なのかを知らなかったから。


「今の蒼羅は本当に明るくなって、良く笑うようになった……でも、きっと今でも自分を責めてて、ひとりだけ生き残ってしまった罪悪感に押し潰されそうになってる」


 緋奈咤ひなたの言葉に、朱羽あけはは彼が義肢について語ったときに見せた寂しげな表情を思い出した。


 思えばいつも長袖の軍服を着込み、左手には必ず手袋を付けていた。

 彼は義肢を己の希望や誇りとしていたが、やはり五体満足な人間への劣等感は付いて回るのだろう。

 当然だ。他人よりも劣り、欠けている部分を、そう易々やすやすと衆目にさらせる人間はいない。

 あるいは、心の内に巣食った自己嫌悪や劣等感さえ……そうやって隠しているのだろうか。

 

 義肢と同じように。

 人目に触れない場所に、陽の当たらない場所に、押し込めているのだろうか。


「—だから、朱羽ちゃんが支えてあげてね」


 不意に、緋奈咤は朱羽の右手を包み込むように両手で握り込んだ。


「蒼羅が自分を呪い続けて、もうどうしようもなくゆがんで、ねじ曲がってしまわないように。あの子はきっと―から」


 鼻先まで近づけられた顔にあるのは、悲痛なまでに真摯しんしな表情。


 ―ああ、やっぱり蒼羅アイツのことは理解できない。


 蒼羅が命を捨てたがる理由は分かった。

 そんな馬鹿な真似をやるようになった切っ掛けも、知ることが出来た。

 でもやっぱり、朱羽には分からないことばかりが増えていく。


 過去に囚われず、なにもかも忘れて、平穏に生きていく選択肢だってあったはず。どうしてそれを選ばないの?


 自分を大事にしようとしないのは、進んで破滅へ身を置こうとするのは、ひとりだけ辛い道ばかりを選ぶのは、死んでいった仲間へのあがないのつもり?


 心の奥に巣食った劣等感から、今もなお彼を縛り続ける過去のしがらみから、永劫に解けない呪いじみたその苦しみから、どうすれば解き放ってあげられる?


 それはきっと、緋奈咤でさえ知らない。蒼羅にしか分からない。

 だからこそ、アイツ自身の口から聞くべきなんだ。


 これ以上、歪んでしまう前に。

 もうどうしようもなく、ねじ曲がってしまう前に。

 命を無責任に放り出して、取り返しのつかないことになる前に。

 もっと、もっと蒼羅のことを―


 知りたい。


「……はい」

「ふむ、素直でよろしい。―さぁさぁ、堅苦しい話はおしまい」


 返事を聞いた緋奈咤は柔らかく破顔すると、朱羽から手を離して立ち上がり、暖かな風呂場にわだかま鬱屈うっくつとした空気を追い払うように柏手かしわでを打った。


「背中、流したげるね。あんまり長湯してると身体ふやけちゃうし」

「あ、遠慮しときます」

「なーんでよー」


 朱羽は緋奈咤の手―新種の軟体動物のようにわきわきと五指がうごめいている―を辟易へきえきとした様子で見遣みやった。


「なんですかその手。なにするつもりですか」

「やだなーなんにもしないよー」


 じとーっとした半眼を向ける朱羽に返って来たのは、いかにも棒読みっぽい台詞。漠然ばくぜんとした悪い予感に、朱羽は己の身体をかき抱く。

 

「―私は気にしないよ。朱羽ちゃんが何者だろうと。。だからお姉さんに身体をゆだねちゃいなさい。悪いようにはしないから、ね?」


 一転して神妙な顔になった緋奈咤の言葉に、朱羽は小さく溜め息をつき、根負けしたように目を伏せる。

 まぁそこまで言うなら—と警戒を解きつつ薄目で見た先。


 さっきよりも数倍速く両手の指がわきわきわきわき動いていた。おまけに瞳が下心で爛々らんらんと輝いているときた。


「やっぱり嫌です」


 今度は全力で身体を逸らして距離を取る朱羽。

 そのすげない反応に、緋奈咤は端正な顔の部位を全て中央に寄せ、今にも泣き出しそ―泣き出した。


「やーだー!! お姉さん人肌恋しいのー!! たまにはやわこくてかわいい女の子、もみくちゃにしてでたいのー!!」


・・・・・・


 布団に潜り込んで早一時間ほど―蒼羅は寝付けずに悶々もんもんとしていた。


 蒼羅とて一端いっぱしの男子だ。

 いくら性格が好かない女とはいえ、美貌を向けられれば見惚みとれるし、ふとした瞬間にその肢体の女性的な部分に目が行くことはある。

 裸体を目にしてしまえば、それが脳裏にまぶしく焼き付いて離れないのも無理からぬことであった。


 その張本人が今、すぐ近くで寝ているとなれば……あまりの気まずさに寝付けなくもなる。


 朱羽と同室での就寝である。

 普段なら問答無用で拒絶する彼女がそれを許しているのは、負傷の経過観察やかわやへの介添かいぞえも兼ねてのことだ。

 それなりに動けるようになったとはいえ、今の蒼羅は負傷者に変わりない。


 『布団も一緒にしちゃえ!』と緋奈咤がとんでもないことを口走っていたが、双方が断固として拒否した。それだけは譲れなかった。


 ふたつほど寝返りを打てば、朱羽が眠る布団に転がり込めるほどの距離だ。

 もっとも、そんなことをすればまた刀を突き付けられるだろう。今度こそおどしでは済まなくなるかもしれない。

 命を放り投げてまで女と同衾どうきんするなんて無謀を試す度胸は、流石に無かった。

 もちろんする気も全く無いのだが。


「―ねぇ、見たでしょ」

「……なにを?」

「とぼけないでよ……で」


 気恥ずかしそうに上擦うわずった朱羽の声に、うわぁ、と蒼羅は小さくうめいた。

 寝息が聞こえないと思ったら―まさか彼女から蒸し返してくるとは思わず、どう弁明したものかと思案する。


 湯煙でかすんではっきりとは見えなかったし、彼女はこっちに背中を向けていたから、別に心配するようなものまでは見ていないのだが―


「見たんでしょ、あたしの

「……え? 背中?」


 必死に弁解を考えていた蒼羅は、思ってもいなかった朱羽の言葉にしばらく口をぱくぱくと動かす。

 遅れて、あぁ—と嘆息しながら、彼女が言いたいことを理解した。


「虎堂の言ってたこと、本当だったんだな」


 『天照あまてらす』の構成員は、身体に席次を示す紋様を彫られる―


 脳裏に虎堂琥轍こどうこてつの言葉が蘇る。

 過去の朱羽は暗殺部隊『天照』の一員―それも第三席という高位―だったと彼は言った。


 しかし蒼羅はそれを聞いてなお、一縷いちるの甘い望みを抱いていた。


 朱羽が人を殺す人間だと思えず、また彼女自身が『天照』の構成員と面識がないと言っていたことから、こちらを動揺させるための嘘なのかもしれない、と。

 それを裏切られる形になり、蒼羅の中には落胆や失望に似た複雑な感情が湧き起こる。


「ねぇ、あたしのこと……どう思った?」


 問いかける朱羽の声には、珍しくおびえるような弱々しさがあった。 

 しばしの黙考の後、蒼羅は絞り出すように答えた。


「…………分からないよ。俺には、お前が理解できない」


 それを皮切りに、蒼羅の心の内にもやのように蟠っていた思いが、せきを切ったようにあふれ出した。


「礼儀正しい良い奴かと思えば、慇懃無礼いんぎんぶれいな冷血人間だったり。歳の割に妙に大人びてると思ったら、子どもみたいにわめきだしたり。誰かを守るために戦える奴だと思ってたら、過去に人を殺してたらしかったり……何なんだよお前。もう分かんねぇよ……」

「そう……ね。何なんだろうね、あたし」


 ひとしきり吐き散らした後、蒼羅は苛立いらだったように溜め息を吐く。

 放たれた言葉のひとつひとつを噛み締めるように幾度もうなずいた後、朱羽は困ったようにやるせなく笑った。


 わずかな時間、二人の間にとばりとなって下りる沈黙。それを切り裂いたのは蒼羅の声だった。


「……お前も、人を殺したりしたのか?」

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