傷と過去⑧
「……お前も、人を殺したりしたのか?」
一度は
彼女は過去に、幕府の暗殺部隊『
ならば当然、両手両足の指では数え切れぬ人数を殺しているはず。手を汚さずいられるわけがない。
そんなことは分かっているし、蒼羅もそこまで頭が回らないわけではない。
―ただ、納得したかった。
嘘なら嘘だと、本当なら本当だと、朱羽の口から聞きたかった。
「…………分からない」
幾ばくかの沈黙の後。朱羽から返ってきたのは、煮え切らない調子の声だった。
それは口から出るに任せた嘘ではなく……
確かな思案と葛藤の末に、朱羽が出した結論。
「―あたしね、昔の記憶が無いの」
「……え?」
思わぬ暴露に、蒼羅は反射的に朱羽の方へ首を
朱羽はこちらを見返さず、ただ天井を見つめている。しかしその目は天井よりも、もっと高く遠い場所を透かし見ているようだった。
「いや、抜け落ちてるって言った方が正しいのかな。過去の記憶を、所々しか覚えてない」
探るように語る朱羽。月明かりで青白く照らされるその横顔には、不安の色が濃くなっていく。
「物心ついてから数年の記憶は残ってるの。でも、そこから先の出来事がいくつか思い出せない。順番もぐちゃぐちゃで、いつのことなのか分からない。数年間の記憶が、綺麗さっぱり無くなってる所もある」
「……お前が『天照』にいた頃のことは、覚えてるのか?」
「前までは覚えてなかった。けど、『天照』の奴らに狙われるようになってから、ちょっとずつ、思い出して来てる。でも、過去になにがあったのかは、まだ……」
「…………そうか」
蒼羅は天井を眺めながら、出掛かっていた別の言葉を飲み込み、ようやくそれだけ返した。
―朱羽ですら分からないことを、俺が無理にほじくり返すべきではない。
『分からない』
『無いの。なにも……無いの』
『それも、ない……はず』
刺客たちに狙われる理由を問うた蒼羅に、朱羽が返した言葉たち。
その真意を知り、あのとき彼女が浮かべていた複雑な表情に得心が行く。吐き出してなお蒼羅の心の内を
「あたしは人を殺した覚えなんてない。けど……」
不意に言葉が切れる。不思議に思って朱羽を見やると、躊躇うように口を
「……けど?」
その先が気になり続きを
「きっと過去のあたしはね……
朱羽の瞳は、己でさえ不確かな過去への
一度は飲み込んだ言葉を、今はっきりと伝える決意を。
「それでも俺は、お前が……九条朱羽が、人を殺すような人間だとは思えない」
朱羽がただの冷血人間ではないことは分かっている。
出会ったときこそあの冷めた態度に
本当に自分のことしか考えないような人間ならば、蒼羅の負傷の手当てなどしなかっただろう。
「過去のことなんて、いつまでも引き
「……うん、ぁ——」
「なんて?」
「あんたもなんか話してよ、って言ったの」
消え入りそうな声で
「あたしだけ色々バラされるの、なんか……不公平でしょ」
「俺の話なんか聞いて楽しいかぁ?」
蒼羅は困ったような声を上げる。やんわりと断るような響きのそれに、朱羽はわざとらしく
「さっきまで他人の過去をずけずけと詮索してたくせに、自分はなにも喋らないなんて……卑怯じゃない?」
痛いところを突かれたように口を引き結んだ蒼羅は、やがて観念するように息を吐いて語り出した。
「―俺さ、昔は『
「親父はよく
「俺は田舎の村に嫌気が差しててさ、いつか親父の仕事を手伝うために、江都の街に行くのが憧れだった。……けど、あんな形で叶うなんて、思ってもみなかったな」
わずかな沈黙の後に絞り出した声に楽しげな色はなく、悲痛な
「……九年前。親父が幕府の奴らに処刑された。その数年後、俺たちも反乱分子と見なされて……皆殺しにされたんだ」
「俺は家の近くの蔵に隠されて、運良く生き延びた。みんな俺を
緋奈咤から概略を聞いていたが、朱羽は話の腰を折ろうとはしなかった。
余計な口を挟まず、
「結局、親父が処刑された理由は分からず仕舞い。……だから俺は、『
「そして?」
唐突に黙り込んだ蒼羅に、朱羽は反射的に続きを促す。しかし蒼羅はやるせなく目を伏せ、暗にそれを断った。
「……もういいだろ。昔話は、これで終わりだ」
蒼羅はそれ以上の言及を拒むように、寝返りを打って背を向ける。
朱羽は喉元まで出掛かった言葉を飲み込み、絞り出すように問いかけた。
「……ねぇ、蒼羅」
「なんだよ」
少し不機嫌な声を上げ、もぞもぞと再び寝返りを打つ蒼羅。いい加減に寝かせてくれ……と顔に書いてあるのが見えて苦笑する。
「いつか話の続きを―あんたが『本当にやりたいこと』を、あたしに聞かせて」
立てた小指を差し出してくる朱羽に、蒼羅は乗り気ではなさそうな生返事とともに小指を絡めた。
「……気が向いたらな」
「じゃ、期待しないで待ってる。約束ね」
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