共振と追跡⑧
「殺すよ」
倒れた
このまま力を込めれば、
目の前に差し迫った命の危機。
しかし蒼羅は抵抗することもなく、朱羽の激情に満ちたどこか悲しげな表情をただ静かに見据えていた。視線の先で気に入らなさそうに形の良い眉が歪み、猫目は冷たく細められる。
口では殺すと言うが……腕には力がこもっておらず、ふるふると
蒼羅はその細腕を
「……出来もしないこと、言うなよ」
不意に腕の力が緩む。糸が切れたようにかくりと
「なんで? どうして……あたしなんか信じてくれるの?」
胸板に額を押し付け、弱々しい声で
「俺が勝手にそう思ってるだけだよ。それを裏切るかどうかはお前の勝手だ。……出来れば裏切って欲しくないけどさ」
朱羽は以前言っていた。
自分は、その気になれば
だが蒼羅には、どうしたってそうは思えなかった。
自分が人を殺していたかもしれない——それだけでこんなに怯えている。
そんな彼女が、平然と命を奪えるような冷酷な人間なわけがない。
「殺せない。あたしに、人なんか殺せないよ……」
押し殺した声を上げる朱羽。
彼女が顔を
・・・・・・
そうしてどれほど経っただろうか。
嗚咽と震えがようやっと収まった朱羽は、よそよそしく身体を離した。
「頭冷やしたいから、水、替えてきて。……お願い」
泣き
蒼羅は小さく
後ろ手に
「朱羽ちゃんの様子はどう? 大丈夫そう?」
閉じた襖へ視線を流した後、蒼羅は小さく首を横に振る。
「まだ完全には復調してない。ごめんな姉ちゃん、もう少しだけ居させてくれ」
「気にしなくていいの。なんだったら『
思い詰めるような
こちらを
―駄目だ。これ以上は巻き込めない。
蒼羅は
そんな義弟を他所に、緋奈咤はうん、と意を決したように大きく頷いた。
「でもやっぱり、あんな大怪我したからにはきちんと
ぐっ! と親指を立てて片目を
先までの消沈はどこへやら……玄関に向かうその跳ねるような足取りは、実に軽やかだった。
・・・・・・
部屋にひとり。
息詰まる雰囲気は
居心地の悪さが
静まり返った部屋の中、布団に
過去の記憶を失ってから、必要以上に他人と関わるのを避けてきた。
人付き合いは顔見知りや知人程度の仲で済ませ、唯一の家族と呼べる九条家の人間とも本心から向き合ったことは少ない。
無論、親友と呼べる者など存在しない。―否、存在させなかった。
それは何故か。
―ひとりで充分だから?
―他人なんて足手まといだから?
――違う。人を裏切るのが怖いからだ。
その思いは、自分自身の過去――欠落した記憶に起因する。
『お前が人を殺すような人間には見えない』
『少なくとも悪い奴じゃない』
そう言って、蒼羅はあたしを信頼してくれた。だけどそれは、今のあたしに向けてのものだ。
朱羽は暗殺部隊『
辛うじて残る記憶の断片の中では、確かに人を殺したことはない。
だが、失った記憶の中の自分はどうだろうか。
『天照』での活動の中で、両手を血で汚さずにいられたわけがない。本当に人を殺していないとどうして言い切れる?
不透明な状況が起これば、時としてそこにはありもしない想像や推測が入り込むものだ。以前なら、考え過ぎや被害妄想だと
しかし今の朱羽にはそれが出来なかった。
心の内に黒い
それは『天照』の面々と戦う中で次第に
それは人影だった。
頭から爪先まで
—自分自身が塗り替えられ、別の誰かに
—思考を埋め尽くすほどの殺意。
—突如として噴出したあのドス黒い衝動。
戦いの中で覚えた異様な感覚の数々。それらは間違いなく、己の内に巣食うあの人影から湧いて出たものだ。
『お前、自分がなんでそんな風に戦えるのか……分かってないだろう?』
『お前が人を殺すためだけに身に付けて、人を殺し続けて磨き上げた力だ』
目覚めてから勝手に身に付いた身体能力。異常なまでに
過去のあたしが、冷酷無情な殺人鬼だったとしたら?
もしそんな過去が、親しくなった者たちに露見したら?
きっと嫌悪される。
空白の記憶に思いを
過去の自分の行いで誰かを失望させたくなくて。
築いてきた信頼を裏切ってしまうのが怖くて。
——その結果、自分が傷つくのが嫌で。
だから他人と群れず、必要以上に馴れ合わないよう生きてきた。
自己防衛のために。我が身可愛さに。
「……臆病者だな、あたし」
持ち上げた口角は自嘲を笑みに刻み、失笑混じりの乾いた声は畳敷きの床に跳ねて転がる。
本当はこんなに弱々しく、
どんな時でも
――なのに、なんだこの
不用意に
——どうしてこうなった?
出会った時から気に食わない奴で、冷たく当たっていれば勝手に離れていくとばかり思っていた。
けれど、気付けば誰より長く接してしまっている。
——どこで間違えた?
『
彼が内包する
そんなことをすれば後が辛くなると、知っていたはずだ。
露見した過去に失望されるのが嫌だから、これ以上は嫌われたくないから......ああやって突き放そうとしたのに。
それでもなお自分を信じてくれる彼の優しさに、こうやって甘えてしまっている。
彼が居なくなった部屋の静けさに、
——こんなはずじゃ、なかったのに。
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