共振と追跡⑧


 倒れた蒼羅そらまたがり、首に手を掛ける朱羽あけは脅迫きょうはくの声は、自分に言い聞かせるようでもあった。

 このまま力を込めれば、め殺すのは容易だろう。全体重を乗せられたことで身動きもままならない。


 目の前に差し迫った命の危機。

 しかし蒼羅は抵抗することもなく、朱羽の激情に満ちたどこか悲しげな表情をただ静かに見据えていた。視線の先で気に入らなさそうに形の良い眉が歪み、猫目は冷たく細められる。


 口では殺すと言うが……腕には力がこもっておらず、ふるふるとおびえるように震えている。

 蒼羅はその細腕を一瞥いちべつしてから、朱羽の顔―今にも泣き出しそうなほど涙を溜めた双眸そうぼう―を見返し、溜め息とともに言葉を吐き出した。


「……出来もしないこと、言うなよ」


 なだめるような声に、諦めるように猫目が伏せられる。

 不意に腕の力が緩む。糸が切れたようにかくりとひじを折った朱羽は、蒼羅の上でうずくまった。


「なんで? どうして……あたしなんか信じてくれるの?」


 胸板に額を押し付け、弱々しい声ですすり泣く。その嗚咽おえつ混じりの言葉に、蒼羅は小さくかぶりを振る。


「俺が勝手にそう思ってるだけだよ。それを裏切るかどうかはお前の勝手だ。……出来れば裏切って欲しくないけどさ」


 朱羽は以前言っていた。

 自分は、躊躇ちゅうちょなく人を殺せる人間なのかもしれないと。


 だが蒼羅には、どうしたってそうは思えなかった。


 自分が人を殺していたかもしれない——こんなに怯えている。

 そんな彼女が、平然と命を奪えるような冷酷な人間なわけがない。


「殺せない。あたしに、人なんか殺せないよ……」


 押し殺した声を上げる朱羽。

 彼女が顔をうずめる蒼羅の胸板を、襯衣シャツ越しに温かいものが濡らしていく。すがままに任せ、蒼羅はあやすようにゆっくりとその背を撫でていた。


・・・・・・


 そうしてどれほど経っただろうか。

 嗚咽と震えがようやっと収まった朱羽は、よそよそしく身体を離した。


「頭冷やしたいから、水、替えてきて。……お願い」


 泣きらした目許めもとと、それ以上に赤い頬を隠すように顔をそむける朱羽。

 蒼羅は小さくうなずく以外になにも言わず、ゆっくりと立ち上がって部屋を後にした。



 後ろ手にふすまを締め終えると、黒髪をひとつ結びにした長身の女性—緋奈咤ひなたが廊下に立っているのが見えた。


「朱羽ちゃんの様子はどう? 大丈夫そう?」


 人懐ひとなつっこそうな顔は心配と不安でくもり、普段ならうるさいくらいの声量は、ささやきほどに潜められている。心なしか頬の十字傷もいつもよりくすんで見えた。

 閉じた襖へ視線を流した後、蒼羅は小さく首を横に振る。


「まだ完全には復調してない。ごめんな姉ちゃん、もう少しだけ居させてくれ」

「気にしなくていいの。なんだったら『旗本衆はたもとしゅう』の寮なんて引き払って、うちに戻って来ちゃえば?」

 

 思い詰めるような義弟おとうとの表情からなにかをさとって逃げ道を示したのか、それとも単なる冗談か。

 こちらを気遣きづかう柔らかい笑みの真意ははかれない。緋奈咤の目には、一体どこまで見えているのだろうか。


 ―駄目だ。これ以上は巻き込めない。

 蒼羅は目蓋まぶたを下ろして笑顔をさえぎり、義姉あねの言葉に甘えそうになる自分を律する。

 そんな義弟を他所に、緋奈咤はうん、と意を決したように大きく頷いた。


「でもやっぱり、あんな大怪我したからにはきちんと養生ようじょうしなきゃ。ちょっと街に行って食べ物買ってくるから、お留守番よろしくね蒼羅。今夜はお鍋にするから! ―鍋ッ!! ひゃっほう!!」


 ぐっ! と親指を立てて片目をつむる緋奈咤。

 先までの消沈はどこへやら……玄関に向かうその跳ねるような足取りは、実に軽やかだった。


・・・・・・


 部屋にひとり。

 息詰まる雰囲気は霧消むしょうしたが、人ひとりがいなくなっただけで異様に広く感じる。

 居心地の悪さが払拭ふっしょくされた静寂せいじゃくは、耳を刺すような幻痛を覚えるほどに冷たい。

 静まり返った部屋の中、布団に仰向あおむけになった朱羽は自問自答を繰り返していた。


 過去の記憶を失ってから、必要以上に他人と関わるのを避けてきた。


 人付き合いは顔見知りや知人程度の仲で済ませ、唯一の家族と呼べる九条家の人間とも本心から向き合ったことは少ない。

 無論、親友と呼べる者など存在しない。―否、

 それは何故か。


 ―ひとりで充分だから?

 ―他人なんて足手まといだから?

 ――違う。だ。


 その思いは、自分自身の過去――欠落した記憶に起因する。


『お前が人を殺すような人間には見えない』

『少なくとも悪い奴じゃない』

 そう言って、蒼羅はあたしを信頼してくれた。だけどそれは、に向けてのものだ。


 朱羽は暗殺部隊『天照あまてらす』で自分が何を為していたのかを覚えていない。

 辛うじて残る記憶の断片の中では、確かに人を殺したことはない。


 だが、失った記憶の中の自分はどうだろうか。

 『天照』での活動の中で、両手を血で汚さずにいられたわけがない。本当に人を殺していないとどうして言い切れる?


 不透明な状況が起これば、時としてそこにはありもしない想像や推測が入り込むものだ。以前なら、考え過ぎや被害妄想だと一蹴いっしゅうしただろう。

 しかし今の朱羽にはそれが出来なかった。


 心の内に黒いもやのようにわだかまっていた、己の預かり知らぬ過去への不安。

 それは『天照』の面々と戦う中で次第におぼろな形を取り始め――そして龍親たつちかとの戦いを経て、その姿形は確信と共にはっきりと結実した。


 それは人影だった。

 頭から爪先までくま無く、真っ黒な影色で塗りつぶされた“誰か”だ。


 —自分自身が塗り替えられ、別の誰かにるような違和感。

 —思考を埋め尽くすほどの

 —突如として噴出したあのドス黒い衝動。

 戦いの中で覚えた異様な感覚の数々。それらは間違いなく、己の内に巣食うあの人影から湧いて出たものだ。


『お前、自分がなんでそんな風に戦えるのか……分かってないだろう?』

『お前が人を殺すためだけに身に付けて、人を殺し続けて磨き上げた力だ』


 目覚めてから勝手に身に付いた身体能力。異常なまでに鋭敏えいびんになった己の感覚。この身に、意識に、染み付いた極致きょくちの武芸。


 過去のあたしが、冷酷無情な殺人鬼だったとしたら?

 もしそんな過去が、親しくなった者たちに露見したら?


 きっと嫌悪される。軽蔑けいべつされ、迫害され、あたしの居場所は無くなる。

 空白の記憶に思いをせる度に、他人と関わることに対する恐怖や不安は増大していく。


 過去の自分の行いで誰かを失望させたくなくて。

 築いてきた信頼を裏切ってしまうのが怖くて。

 ——その結果、自分が傷つくのが嫌で。


 だから他人と群れず、必要以上に馴れ合わないよう生きてきた。

 自己防衛のために。我が身可愛さに。


「……臆病者だな、あたし」


 持ち上げた口角は自嘲を笑みに刻み、失笑混じりの乾いた声は畳敷きの床に跳ねて転がる。


 本当はこんなに弱々しく、もろい人間だと悟られないように。

 どんな時でもすずしい顔をして、弱気な姿など見せず。どんな逆境だろうと不敵に笑い、勝ち気に強気に立ち向かう。そんな人間であろうとした。


 ――なのに、なんだこの醜態ザマは。

 不用意につるんだ他人に知られたくない過去をあらわにされ、挙げ句にこんな情けない姿までさらして。


 ——どうしてこうなった?

 獅喰しばみ蒼羅そらは所詮、無理やり組まされた一兵卒いっぺいそつ

 出会った時から気に食わない奴で、冷たく当たっていれば勝手に離れていくとばかり思っていた。

 けれど、気付けば誰より長く接してしまっている。


 ——どこで間違えた?

 『艶街いろまち』での一件のあと、彼ひとりではどうしようも無かったことを引き摺って落ち込むのが気に食わなくて……無理やり元気づけようと外に連れ出してみたり。

 彼が内包するいびつさに触れて、緋奈咤から聞いた過去の境遇に同情して……彼をもっと知りたいと興味を抱いてみたり。

 そんなことをすれば後が辛くなると、知っていたはずだ。


 露見した過去に失望されるのが嫌だから、これ以上は嫌われたくないから......ああやって突き放そうとしたのに。

 それでもなお自分を信じてくれる彼の優しさに、こうやって甘えてしまっている。

 彼が居なくなった部屋の静けさに、一抹いちまつさびしささえ覚えている。


 ——こんなはずじゃ、なかったのに。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る