共振と追跡⑨

 湿った腐葉土ふようどこけや雑草がまだらを描く地面から、細身の木々がまばらにいくつも伸びる。陽光に透かされた枝葉の翠緑すいりょくが差し込む林の中。

 いっとう踏みならされ固まった地面の上に、ますのような形状の古びた釣瓶つるべ井戸がある。そのそばの細い柱にしつらえられた簡素な木製屋根の下、蒼羅そら物憂ものうげな顔で水汲みずくみにいそしんでいた。


 鎖の付いたおけを放り投げる。屋根から下がった滑車が回り、巻かれていた鉄鎖てっさがきりきりと音を立てた。

 

 釣瓶で井戸から水を汲み上げ、別の桶へと移す——淡々と単純で退屈な作業の繰り返し。

 その中で取り留めのない思考をめぐらせるのは、のぞき込んだ井戸底にある暗澹あんたんを見透かそうとするように果てしない。


『あんたが手柄を上げるせっかくの機会だったじゃん。あたしなんかかばってそれを棒に振ってさ……馬鹿じゃないの』


 脳裏に浮かぶ朱羽の言葉。勝手にゆがんだ表情筋が、力ない自嘲じちょうの笑みを刻み込む。

 お前の言う通りだ、本当に馬鹿だよ。


 あのとき、狒々愧ひびきを殴り飛ばさなければ。依智いちを叩き伏せなければ。龍親たつちかの手をはばんでいなければ。姉弟きょうだいの追跡から逃れようと思わなければ。

 朱羽あけはを——見捨てていれば。


 蒼羅は『旗本衆はたもとしゅう』での地位を失わずに済んだだろう。

 利害の一致から始まった朱羽との薄っぺらい協力関係は解消され、手柄も上げられて一石二鳥。彼女よりマシな別の相棒をてがわれたかもしれない。

 そうして出世街道を歩んでいけば、やがては幕府中枢へ食い込み、『あの日』の真実に——『真紅しんくの剣士』の正体に辿り着けたはずだ。


 選択を後悔していない、と言えば嘘になる。

 衝動的な行動をかえりみていない、と言えば嘘になる。

 馬鹿な真似だと自嘲していない、と言えば嘘になる。


 目蓋まぶたを強くつむり、岩陰のむしのようにい出てくる悔恨かいこんつぶす。

 ——だけど。

 首を横に振り、思考にもやとなって掛かる自責の念を払いける。

 ——それでも。

 肺一杯まで息を吸い込み、喉奥をむしる自身への嘲謔ちょうぎゃくを吐き捨てる。

 ——だとしても。

 

「俺は、自分が正しいと思ったものを信じていたいんだ」


 朱羽に人は殺せないと思った。

 そんな彼女を悪者に仕立て上げるのは、間違っていると思った。


 だからこそ依智と狒々愧に敵対し、龍親の説得を試みた。そしてそれが叶わなかったから、朱羽を連れて逃げた。

 後悔も反省もあれど、蒼羅は自分の選択が誤っているとは思っていない。間違っていたと思いたくはない。

 あのとき見捨ててしまったら、きっといつまでも後悔を引きって生きることになっただろうから。


 空をけ勝利を運ぶはずの『八咫烏ヤタガラス』は、天上を自在に舞う龍によって翼をし折られ……地に叩き落とされた。

 そのうえわれのない罪でざまたたかれ足蹴あしげにされるなど、あまりにこくな話だ。


 普段の高慢こうまんで勝ち気な態度を見ていたからこそ、今の彼女の姿はひどく弱々しく、しおらしくしおれて見える。まるで別人のように。

 無論、今までの彼女が薄っぺらな虚勢きょせい見栄みえを張っていたとは思わない。

 己に対するほこりと絶対の自信、それを裏打ちするに足る実力を確かに持ち合わせていた。

 勝気な笑みを浮かべ、慇懃無礼いんぎんぶれいな口を叩き、どこまでも気丈きじょうで、弱音など一度も吐いたことのない。

 強く気高けだかく、時に獰猛どうもうな、一羽の真っ白なからす


 だが今はただ力なく倒れ、その相貌そうぼうは気弱にくもり、迷子のような目をして、眉根を下げて意気消沈——そんな彼女をただ見ているだけというのは、我慢ならなかった。


 今の朱羽には味方が必要だ。誰かひとりでも、彼女を信じて支える人間がいなければいけない。

 ——誰一人としていないというのなら、俺が味方を張ってやる。


 お節介せっかいかもしれない。迷惑かもしれない。だが指をくわえて見ているわけにもいかない。なによりも、


 ――お前がそんな状態ザマだと、なんか俺まで調子が狂うんだよ。


「!」


 不意に、近付いてくる足音に気付いた。鎖を巻き上げる手を止める。

 一歩、二歩、土をにじる靴音は次第に大きくなっていく。曲者くせものが脚を止める気配は無い。

 蒼羅は自然と全身の感覚をましていた。

 この足音と歩幅の間隔は—―脳内に眠る記憶を引っ張り出し、高速で検分する。


 やがてその正体に辿たどり着いたとき、それを見計らったかのように足音がぴたりと止んだ。背後から肌を刺す殺気に、うんざりと嘆息たんそくする。

 ……まさかに、今この場所で相見あいまみえるとは。これも俺が『厄病神やくびょうがみ』だからか?


「何の用だよ」


 自らの不運を冗談めかして呪いつつ、振り返らずに低い声を投げる。返答はびた笑い声と共に響いた。


野暮やぼが。言われなくても分かんだろォ?」

「分からないし、分かりたくないから訊いてんだよ」


 背後に立つ男は特に驚く様子も無く、おどけた調子で言ってのける。

 苛立いらだちを声に乗せて吐き捨てながら、蒼羅はひとつだけ浮かんだ可能性を口にする。


生憎あいにくだが、朱羽は瀕死ひんしの重傷だ。お前の相手は出来ない」


 目当ての獲物えもの此処ここにはいない。腹をかせた猛獣はおりに帰れ—毒づく蒼羅に返ってきたのは落胆の声では無く、再びの錆びた笑い声。


「くはは、んなこたァ知ってるっつの。俺はんだ」


 その言葉にわずかな驚きを覚えながら、蒼羅は背後の猛獣を回れ右して帰らせることをあきらめた。―まぁ、今の朱羽が狙われるよりはマシか。

 大儀たいぎそうに嘆息しながら首を巡らせた先。果たしてそこにいたのは、予想した通りの人物だった。


「だから何の用だよ……」


 人影を睨み付け、蒼羅は敵愾心てきがいしんを込めた声を放つ。

 灰をかぶった色合いの髪。獣の爪に引っ掻かれたかのような、二条の傷が刻まれた頬。

 古傷まみれの隆々とした上半身を包むのは、陣羽織じんばおりめいた山吹色の長外套。穿かれた細身のはかまにはやぶほつれが目立つ。


 元『天照あまてらす』第二席の『虎』——虎堂こどう琥轍こてつ

 凶暴、獰悪どうあく、そして狂乱を絵に描いたような男。戦闘いくさえる獣。死合しあいえる修羅。


「こんな辺鄙へんぴな場所まで来てもらって悪いが......俺はお前に用は無いし、招いた覚えも無いから帰ってくれないか」


 声の調子を落とし語気を強めた蒼羅は、背を向けて水汲み作業を再開する。

 明らかな拒絶きょぜつの態度を受けた琥轍こてつ仰々ぎょうぎょうしく肩をすくめ、ぎらついた獣の目を伏せた。


「俺だって好きでここに来たわけじゃねェ。なんてがらじゃねェしな」

「……後始末?」


 意味をはかりかねて振り返る蒼羅に、小さくうなずいて琥轍は破顔はがんする——歪んだ表情筋が、獰悪な笑みを作り出した。


ところで、楽しくもなんともねぇからなァ?」

「ッ!!」


 コイツは朱羽を殺す気だ。思わず噛み締めた歯がぎりッ、といびつな音を立てる。


「おめぇと少しあそんでから仕留めようと思ってたが……乗り気じゃねェなら仕方ない。先に『八咫烏ヤタガラス』の奴をるか。わりィ、邪魔したな」

「——行かせるかよ」


 白々しい調子で手を振ってきびすを返す琥轍を呼び止める。

 桶を後ろ手に井戸の中に放り投げ、構える蒼羅。振り返ってそれを目にした琥轍の唇がめくれ、真珠色の犬歯が覗いた。

 己が獲物へと向き直ると、掌を上に向けて挑発的に手招く。


「くはッ。良いねェ……来いよ、おめぇのまもってみろ」


 ごうッ——荒涼こうりょうとした突風が音立てて吹き込み、木々のこずえそよがせた。

 燦々さんさんと降り注いでいた日差しはおびえるように雲へと隠れ、目に映る世界の色調が一段下がる。


 蒼羅が突き刺すように放つのは、棘々とげとげしい敵意。

 琥轍の身からしたたるようににじみ出すのは、殺伐さつばつとした喜悦きえつ

 冷却。過熱。睨み合う二人の周りで流動する空気が、彼我ひがの間に横たわる空間を歪ませる。


 放られた桶が井戸の中へ落ちていく。釣瓶の滑車が回り、巻き上げられる鎖がぎりぎりときしんだ音をかなでる。


 釣瓶桶つるべおけが水面へ近づく度に、

 滑車の回転速度が上がる度に、

 鎖がざらついた金属音を上げる度に、


 二人の身から放たれる闘気と殺気にてられ、大気が硬質化していく。肌を刺す不可視ふかしの針が、鋭利さを増していく。

 枝葉を震わす風すら止み、訪れる束の間の静寂せいじゃく

 限界まで圧縮された空気は、それを解放するための引き金を欲していた。


 その切欠きっかけとなったのは井戸底から響いた水音。

 釣瓶桶が水面にぶつかり飛沫しぶきを上げた刹那せつな――


 土を蹴散けちらし、爆発的な速度で距離を詰めた二者が激突。

 拳と拳がかち合い、わだかまっていた大気は衝撃波へと変換、辺りに吹き荒れを散らす!!

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