共振と追跡⑦

 夜がけ始め、墨色の空が薄明るい群青色にけ出す頃。

 『醜落しゅうらく』の一画にあるよどんだ川の浅瀬あさせには、二つの人影が立っていた。


「なぁ、本当にここか?」

「本当にここ。“匂い”はここで途切れてる」


 いぶかしむような声を上げる少年―狒々愧ひびきに対し、確信に満ちた声を返す少女―依智いち

 しかし、狒々愧は怪訝けげんに目を細めたままだ。視線を姉の手元へと注ぎながら、飽き飽きとしている様子を隠そうともせず口を開く。


「でもさ、一晩中探して見つかったの、だけじゃん?」


 依智が手に握り締めているのは

 狒々愧が肩をすくめながら掲げる手には

 弟の言うとおり、目当てのものは一晩探しても見つかっていない。先程から一向にくつがえらないその事実に、依智は不服そうに眉根を寄せた。


「狒々愧、ちゃんと探してるの?」

「さっきから人の気配なんて聴こえねーよ。もな」


 川底からつまみ取った砂粒すなつぶを顔の前に掲げた後、ぞんざいに放り投げる狒々愧。依智は大きく嘆息たんそくし、頭痛を堪えるように目頭を押さえた。


 『醜落』近くの空き家に逃げ込んだ、九条くじょう朱羽あけは獅喰しばみ蒼羅そら

 彼らを捕らえようとした姉弟きょうだいは予想外の抵抗にい、間抜けにも気絶。

 目覚めた依智は、自身の異常嗅覚を用いて二人の血臭を辿たどり、川に落ちた彼らがこの下流まで流れ着いたことまで突き止めた。


 しかし、そこにあったのは血にまみれた衣服と携帯していた刀剣のみ。肝心の姿形はどこにも見えない。


 手にした襯衣シャツに染み込んだ血のほとんどは水に溶けてにじみ、手掛かりとなる匂いは既に消え掛かっている。ここから再び足跡を辿るのは至難のわざだ。

 狒々愧の耳でもとらえられないとなれば、この一帯で息を潜めているとは考えられない。

 となると―


「大した奴だぜ、俺たちの追跡から逃れやがった。まさか血の付いた服と武器だけ川に流すなんてな。……お、依智姉いちねぇも同じこと考えてた感じ?」


 川縁かわべり砂利じゃりの上に腰を下ろしながら、狒々愧は危惧きぐしていた可能性を言い当ててみせる。黒布に覆われた依智の口からは、反射的に苦渋くじゅうに満ちた歯軋はぎしりが漏れた。

 怒りを露わにする姉へ同情に似た視線を送りながら、狒々愧は大仰おおぎょうに肩をすくめ、やれやれと目を伏せる。


「……今回は俺たちの負けだよ、依智姉」 


 弟の言葉に、肉食獣の威嚇いかくじみて顔を歪めた後、依智はきびすを返し浅瀬から離れていく。川を挟んで向こう側に座っていた狒々愧は、水をばしゃばしゃ踏み散らしながら慌ててその後を追った。


「どこ行くんだよ」

「帰る」

「じゃあ俺も帰ろうっと。……なぁ、これ重いから捨てて良い?」

「駄目。それ状況証拠」

「へーい」


・・・・・・


 箪笥たんすに姿見、小さな机。

 必要最低限の調度品がしつらえられた、六畳ほどのさして広くない部屋。そこは獅喰しばみ家の一室だった。

 

 小窓から注ぐ木漏こもれ日が照らすのは、部屋の真ん中に敷かれた布団と、そこに横たわる少女―朱羽の姿。

 端正な顔は死人のように白く、額には脂汗が浮き、形の良い眉は痛みをこらえるように微細に震えていた。

 細い首や華奢きゃしゃな肩周りに巻かれた包帯には血が薄く滲んでいる。布団に覆い隠された肩から下が更なる重傷を負っているであろうことは、想像にかたくない。

 朱羽は寝返りを打つこともなく、目覚めてからかれこれ数時間、天井の木目ばかり見つめている。


 その隣で胡座あぐらをかいて座り込む少年―蒼羅はといえば、ときおり彼女の身体に巻かれた包帯を取り替えたり、かわやへ付き添ったりする他は、頬杖ほおづえをつきながら障子の外の風景へと困ったように視線を注いでいた。


 風がそよぎ、こずえが揺れ、鳥がさえずる環境音が響く中。

 部屋の中にあふれる静謐せいひつ。場を覆うのは不自然な沈黙。


「よく飽きずに天井なんて見てられるな。なにがそんなに面白いんだ?」

「……なに、嫌味?」


 沈黙を破ろうと声を掛けてみるも、朱羽のかすれた返事は刺々とげとげしい。

 こんな状態の彼女をおちょくるのもなんだか気が引けて、口から滑り出る冗談も半端な仕上がりになる。


「見てるだけで死にたくなる不幸面をながめるより、天井の木目を見てる方がマシ」

「そうかよ、悪かったな」


 さっきからずっとこんな調子だ。会話がまともに続かない。

 蒼羅からすれば普段からまともな会話をしていた覚えは無いのだが……こうもぎこちないと流石さすがに居心地が悪い。


 再び黙り込む二人。

 重苦しい雰囲気は通夜への参列にも似て、押しつぶすように両肩にのし掛かってくる。今日何度目か分からない蒼羅のめ息も、この行き詰まる空気を破るには至らない。

 横たわる朱羽から視線を外し、再び外の風景を眺める彼の心中に去来するのは、自分たちに掛けられた追っ手の行方だった。


 隠神いぬがみ依智と狒々愧。

 それぞれ異常精度の嗅覚と聴覚を持つ彼らから逃げおおせたのは、ほとんど奇跡と言って良い。


 川に落ちた後、蒼羅は泳ぐのに邪魔な上着や刀を必死になって取り外した。

 そのときはとにかくおぼれるのを防ぐのに無我夢中になっていたが……冷静になって考えてみると、それが功を奏したのかもしれない。

 あれから三日ほど経ったが、未だにこの場所は見つけられていない。


 血の多く付いた衣服や武器を流したことによって、依智たちはそちらの臭いを追って下流までのこのこと探しに行ったのだろう。上手くけたのだと信じたい。


 しかし逃げられたからと言って、いつまでもここに留まっていられないのも事実。

 家主である義姉あね緋奈陀ひなたは無関係だ、この件に巻き込むわけにはいかない。朱羽の身体がある程度まで復調したら、すぐにここを離れなければ。


 それに、武器も要る。

 だが『廃刀令はいとうれい』が出されてから、鍛冶屋かじやや武器商人は幕府としか取引をしなくなった。一般人が刀を得るには、闇市で出回っている品を買うしかない。

 一体、どこでその伝手つてを得れば良いものか―


「なんで、あたしなんか助けたの」


 思考の最中さなかにぽつりと、掠れた声が響いた。

 どこか自棄やけになったような口調で朱羽はそう問うてくる。蒼羅は頬杖をやめて淡々と返事を返した。


「お前には、前に助けてもらった借りがある。それを返しただけだ」

「じゃあこれで貸し借りなし、おあいこでしょ。もう構わないで」


 突き放すように言った後、朱羽は身体を引きずり布団からい出る。身に纏う死に装束しょうぞくのような白い襦袢じゅばんは、にじむ血でまだらが出来ていた。


「あたしは、ひとりで、大丈夫……だか……ら、」


 立ち上がった後、眩暈めまいでも起こしたようにふらつく朱羽は脚をもつれさせ、その場に崩れ落ちた。

 咄嗟とっさに駆け寄った蒼羅が抱き止めていなければ、彼女は畳に身体をしたたかに打ちつけ、傷のいくつかは再び開いていただろう。


「ほら見ろ、言わんこっちゃない。怪我人は安静に、して―」


 とがめながら腕の中へ視線を落とし、蒼羅は言葉を失う。

 朱羽は空気をむさぼるように小さいあえぎを繰り返し、隠しきれない苦悶くもんに顔を歪めていた。


 下駄が無ければ自分より頭半分ほど背が低く、着物や化粧で飾り立てられてもいない。等身大の朱羽はひどく華奢で、小さく震えている。

 彼女の本質的な部分、見てはいけないなにかをの当たりにしているような気がして、思わず目を逸らしたくなった。


 ―こんなに弱々しくて、もろそうな奴だったか?


 どんな時でも腹が立つくらいすずしい顔をして、弱気など一切見せず、弱音など吐かず。どんな逆境だろうと不敵に笑い、勝ち気に強気に立ち向かう。

 蒼羅が知る九条朱羽は、そういった人物のはずだった。


 今の彼女には、その面影おもかげすらない。


「あんたが手柄を上げる、せっかくの機会だったじゃん。あたしなんかかばってそれを棒に振ってさ……馬鹿じゃないの」


 朱羽は蒼羅の顔をあおぎ見てくる。

 とげの混じった震える声に反して、その瞳にはいつものひるむような眼力はなく、大きな戸惑とまどいにただ揺れていた。


冤罪えんざいをでっち上げてまで、手柄が欲しいわけじゃない。そんなの俺は御免ごめんだ」


 更に言葉を返そうと朱羽が口を開く。

 蒼羅はそれを封じるように、もたれかかっていた彼女を身体から離し、倒れないよう肩に手を置いて支えた。


「それに言っただろ、お前が人を殺すような人間には見えない。お前は……良い奴って言うのはなんかしゃくだな……少なくとも悪い奴じゃない。俺はそう思う」


 不安に垂れた猫目を真っ直ぐに見据える。困ったように目を逸らす朱羽に、蒼羅は小さく笑いかけた。


「いつまでねてるんだよ、お前らしくない。いつもみたいに―」

? ……はっ、なにそれ」


 自嘲じちょう気味に薄く笑う朱羽。

 その声は冷え冷えとした響きを伴って、細い身体からは静かな怒気が溢れ出す。

 突然の変化に蒼羅が言葉を詰まらせていると、突然、のりいた替えの襯衣シャツが引っ張られた。


 朱羽が両手で乱暴に胸倉むなぐらを掴んでいた。震える手に力など入っておらず、少し身体を反らせば容易に逃れられる。


 だが、蒼羅にはそれができなかった。

 こちらを見据える朱羽の双眸そうぼう。そこに入り混じる不安とおびえ、苛立ち、そして激情に、気圧けおされるように黙り込んでいた。


ってなに? ってなんなの? ……分からない、分からない分からない分からない!!」


 拒絶するように何度も首を横に振る朱羽。白絹の髪は激しく乱れ、胸倉を掴む手には、すがるように力が込められていく。


 ―—あたしね、過去の記憶が無いの。


 いつか朱羽がつぶやいていた言葉を思い出し、蒼羅はそこでようやっと気付いた。

 はげますつもりの何気ない一言が、彼女の最も弱く脆い部分を突いたのだと。


「人を殺すようには見えない? 悪い奴じゃない? あんたが勝手に決めつけないで」


「あたしは確かに『天照』の人間だった……なら絶対に人を殺してたはず」


「何も分からないあんたが、何も知らないあんたが、あたしのこと分かった風に言わないでよ!!」


 せきを切ったように、怒涛どとうとなって溢れ出す言葉たち。それはきっと、朱羽の胸の内でおりのようにこごっていた不安だ。

 今の今までひとりで抱えていたであろう感情を吐き出した朱羽は、苛立ちのままに抱えた頭をかきむしる。

 なんと声を掛けたら良いか分からず、蒼羅は唇を噛んで押し黙った。


「……今こんなに震えてるお前に、人なんか殺せるわけないだろ」


 それでもようやっとしぼり出した言葉に、朱羽の動きがぴたりと止まった。

 一拍の間を置いて噛みつくように顔を近付けると、蒼羅はあっという間に足を払われ押し倒される。



 仰向あおむけになった蒼羅にまたがる朱羽は、彼の首に両手を掛けていた。

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