共振と追跡⑥

「……どうしてここが分かった」


 そう問いながらも、蒼羅そらの中ではひとつ心当たりがあった。得意げに目を細める依智いちを見て、言外にそれが的中していたことをさとる。


を沢山くれてありがとう。……これで


 二言ふたこと目に強い脅迫きょうはくの響きを持った依智の答えは、果たして蒼羅の予想通りのものだった。やっぱりな、と苦々しい表情を浮かべる。


 思い返すのは数時間前、この姉弟きょうだいとの戦闘。

 蒼羅はその場から撤退するために、依智にがせ、一時的にその鋭敏えいびんに過ぎる嗅覚きゅうかくを麻痺させた。


 しかし彼女はそれを逆手に取り、嗅がされた血の匂いを辿たどってここを突き止めたのだ。


「観念しな。大人しくしてりゃ、半殺しくらいで済ましてやるからよ」

狒々愧ひびき

「なんだよ」


 なだめるような声を上げる姉に、一瞥いちべつもなく苛立いらだたしげに返す弟。

 腰に差した二刀の鯉口を切る依智の物憂ものうげな目は、酷薄こくはくで残虐な熱を帯びる。


「半殺しなんては駄目。四分の三殺し―いや、ぐらいで丁度ちょうど良いわ」

「うけけけけ!! 依智姉いちねぇめっちゃ怒ってんじゃん!!」


 耳に届いたのは零度れいどの声。狒々愧は目を丸くしながら姉を見た後、破裂するような勢いで笑い始めた。

 ひとしきり笑い終えた後、狒々愧は長棍を構えて嗜虐しぎゃくよどんだ顔を向けてくる。


「賛成賛成、どうせ人もろくに住んでねー場所だ。たとえ拷問ごうもんしようがバレやしねー」


 言葉を交わしながらじりじりと間合いを詰めてくる二人を前に、蒼羅は周囲に目まぐるしく視線を飛ばし、この場を切り抜ける算段を立てていた。


 裏口から逃げる?

 ―いや、朱羽を抱えていては追いつかれる。

 えて正面突破?

 ―駄目だ、この状態で戦えば間違いなく負ける。


 この際なんでもいい。なにか、なにか時間稼ぎになるようなものは―

 すがるようにめぐらせていた視線の先、部屋をだいだいに照らすが目に入った。


「逃がさねーぞッ!!」


 その瞬間、蒼羅のたくらみに感づいたのか、狒々愧が言葉と共に一息に距離を詰めてくる。


 狒々愧の言葉を思い出しながら閃いた一手。その内容に待ったをかけそうになる理性を強引にねじ伏せる。


 躊躇ちゅうちょしている暇はない。背に腹は変えられない。ここで迷えば二人とも死ぬだけだ。


 蒼羅は狒々愧に向けて足元の焚き火を、囲炉裏に積もった灰ごと蹴り飛ばした。感覚のない義肢だから出来る荒業あらわざだ。


 火の付いたたきぎと灰が舞い上がり、追跡者の姿を橙の幕がさえぎる。直後、部屋にわだかまる闇がその色を増した隙に、朱羽を抱えた蒼羅は裏口の戸を蹴破けやぶった。


 視界に映る外の景色へ視線を巡らせ、一瞬の間に思考は逃走経路を何通りも脳内で組み上げる。

 数瞬後に蒼羅が選択したのは、目の前に掛かる長い石橋だった。

 ―正面から立ち向かうのは無理だ。とにかく逃げて距離を稼ぐ。


 石橋は、大人ふたりがどうにか並んで歩けるほどの幅。

 最近この辺りで雨が降ったのか、足下の川は増水し轟々と音立てる急流となっている。転落防止の欄干らんかんなどはない。万が一にも足を滑らせれば、小さな波涛はとうが連鎖するにごった水面へと真っ逆さまだ。


 背後から聞こえる怒号を置き去り、振り向かずにひた走り、橋の中ほどまで差し掛かったとき。なにかが風を切る音が耳に届いた。

 と同時に、後頭部に衝撃。


「……ッ!?」


 予想だにしない一撃に視界は暗転。

 一瞬だけ飛んでいた意識を取り戻し、蒼羅が目を開けた頃には……己の身体は抱えた朱羽もろとも突っ伏すように倒れていた。


 背後を振り返る。足元に転がる長棍と、その後方から悠々ゆうゆうと歩み寄る二人組が見えた。狒々愧が右肩をぐるぐると回しているのを見るに、投げ槍のように投擲とうてきしたのだろう。

 蒼羅が片膝を立てる間に、二人の追跡者は数歩前の空間まで接近する。


「いい加減しつこいな、お前ら……ッ」


 うんざりと息を吐き出す蒼羅に、依智と狒々愧はあわれむような冷ややかな笑みを向けてくる。


「私の鼻と狒々愧の耳から、逃げられるなんて思わないことね」

「良いこと教えてやろうか? 『天照あまてらす』にいた頃の俺たちはな、お前みたいな裏切り者を地の果てまで追いかけ回して……ブチ殺してたんだぜ」


 蒼羅は彼らの力量を評価し直し、己の選択が誤っていたことに気付く。


 異常なまでの精度を誇る嗅覚と聴覚。

 その応用において真に恐ろしいのは、相手の思惑おもわく看破かんぱでも、味方同士の思考の共有でも無い。


 それを最大限に活かした―だ。


 この姉弟に狙われた時点で、『逃げる』という選択そのものが愚行なのだ。

 どこに逃げようと、二人は必ず追ってくるのだから。それこそ獲物が息絶えるまで、執念深く。


 彼らを振り切る方法はただひとつ。正面から戦って打ちのめすしかない。幸い、ひとつだけ手はある。

 ―ここぞという時の、とっておきの一手が。


 蒼羅は右手にめた黒い革手袋を外しながら、ゆっくりと立ち上がる。

 対する姉弟は、余裕綽々よゆうしゃくしゃくといった様子でそれを見守っていた。目に宿るのは嘲笑ちょうしょう憐憫れんびんの色。


 勝ち目のない戦を仕掛けようとする目の前の愚者を、嘲笑うように。

 あるいは、己が置かれた不利な状況に目を瞑る男を、憐れむように。


「やる気か? いいぜ、今度こそぶっ潰してやるよ!!」


 笑みを浮かべた狒々愧が突貫する。

 その様子を見守っていた依智は、己の弟を迎え撃つために構える蒼羅―その右手を見て目の色を変えた。


「待って、狒々愧―」

「っはは、おッらぁ!!」


 引き留めるために伸ばした手は、既に石橋を蹴っていた狒々愧に届かない。

 一息に距離を詰め、徒手としゅの間合いが接する直前。狒々愧は足下に転がっていた長棍を器用に蹴り上げながら手に取ると、袈裟懸けさがけに振り下ろす。


 蒼羅はそれを沈み込むような体捌たいさばきで避けると、のごとく引き絞っていた右の拳を、狒々愧のき出しの腹に叩き込んだ。

 着弾の瞬間、狒々愧の身体はように跳ねると、そのまま苦鳴すらなく大きく吹き飛ぶ。


 依智は隣に仰向けに転がった狒々愧を見て目を見開いた。

 腹部の打撃を受けた箇所は、火傷やけどを負ったように赤く腫れ上がっていたからだ。


「狒々愧!! どうしたの、しっかり―」


 血相を変えて駆け寄り、抱き起こそうと弟の身体に触れる。指先に走った一瞬の痛みに、依智は眉をしかめた。


「静電気……?」


 蒼羅は残心したまま、己の右手をむように握り締めていた。

 そうだ、のせいで俺は、俺たちは——


「よくも……ッ」


 惨禍さんかの記憶が呼び起こされる寸前、敵意に満ち満ちた声と虚空こくうを裂く刃音が耳に届いた。

 喉を裂こうとする横一閃をって回避。次いで繰り出される突きを半身になって避け、依智の腕を取って後ろへ受け流す。

 背後を取った蒼羅は、依智が振り返るより早くそのうなじに手刀を打ち込んだ。

 接触面に閃光が小さく爆ぜ、依智の身体がわずかに痙攣けいれんする。


「……ッ」


 声にならないごく短い悲鳴を上げて倒れす依智。

 追っ手二人が完全に沈黙したかなど確かめもせず、蒼羅は倒れた朱羽を抱き起こして背におぶると、逃げるように向こう岸へと向かう。


 石橋を渡るその足は震え、身体は幾度となく左右にふらつく。

 肉体と精神の疲労でぼやける視界。閉ざそうと勝手に下りてくる瞼を、無理やりこじ開ける。

 不意に身体がぐらりと大きくかしぐ。足を踏み外したと気付く頃には、既にその身は宙へ投げ出されていた。


 朱羽を抱えたまま、蒼羅は落ちていく。伸ばした手はどこにも届かない。

 身体に内包した迷いごと——重油のように黒々とした、逆巻く水面に飲み込まれていく。

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