火事と喧嘩⑧
人の少ない通りに降ってきた人影が、積まれていた木箱を破砕して、建物の壁に叩き付けられる。
彼女が肩で息をしながら睨みつける先。
『
「……ねぇ、その鎖ってどこまで伸びるわけ?」
「愛が続く限り。……
呼吸を整える時間を稼ぐため、朱羽は適当なことを問うてみる。それに対し、那迦はさも当然のように言ってのけた。
—愛が続く限り? まさかね……。
朱羽は苦笑しながらやれやれと首を振ると、咳払いをひとつ。
「……質問の仕方が悪かったかも。その鎖って、どのくらいの長さなの?」
「これから先、二人で過ごす時間、くらい。……燎馬と、私が」
もういちど問うてみると、にたぁ、と口元を笑みに
彼女の
「…………………………うわぁ」
朱羽は全力で引いていた。―本気だ、本気で言ってるよこの女。
ちょっと距離を(肉体的にも精神的にも)取りたいと思ったけれど、そもそも後ろは壁だった。
まぁ、時間稼ぎにしては上々—呼吸は整った。朱羽はゆっくりと立ち上がる。
小刀を構えると、呼応するように那迦も鎖鎌を振り回し始める。
連続して空を裂く鎖の音を耳にしながら、朱羽は屋根の上での戦闘を回顧する。
あの驚異的な攻撃範囲……この距離にいては、一方的に攻撃されるだけ。
中距離での奴の優位性を潰すには接近戦—
問題はどうやって近づくか―
突如として風音が
即座に思考を強制中断。意識を向けた視界の中で、那迦は攻撃を仕掛けていた。
朱羽―の近くにある
あまりにも大振りな鎖鎌の一閃は、伸びた鎖の中点が瓦斯灯に
「……は?」思わず、素っ頓狂な声が漏れる。
—どこ攻撃してんの?
—もしかして、伸びた前髪が邪魔でよく見えないとか?
我ながらバカバカしい理由に失笑しようとして、背後から風を切る音。
「—!」
反応するよりも早く、鎖がうなじを打った。衝撃で思考が暗転しかける。
那迦が鎖を
しまったッ—などと悔いる暇もなく、朱羽の身体は持ち上げられた。
「ぁ、かひゅ……」
気道が
じたばたともがきながら、首元の鎖を緩めようと必死に抵抗する朱羽。その様はさながら、
一息に鎖を引いてしまえば、朱羽の細首は簡単に
しかし那迦はそうしなかった。
口を半月状の笑みに歪めながら。
勝利の確信に
まるで、毒で弱った獲物をゆっくりと丸呑みにしていく蛇のように。
時間を掛けて、じっくりと
絶望が黒い
その感覚には覚えがあった。『
彼女の仕込んだ毒に
だが今回は違う。
腕の傷口から
見えない手が
腕に力が入らずだらりと下がり、手にしていた小刀は手から滑り落ちた。
視界は
真っ白な頭の中を、 迫る死への恐怖が水墨めいて塗りつぶしていく。
意識が遠のき始め、遠くで突如として響いた爆発めいた大音声も、ひどく遠いもののように聞こえた。
焦点が合わずぼやけた視界の中、音のした方向へ視線を向ける。
目を
「居た。……最上階に、あの商人も」
小さく笑いながら、那迦がぼそりと呟いた。
なんのことか聞き返したいが、朱羽の口からは既に声も出ない。
「連れてきた、貴女を。……あの商人」
二言目でようやくその意味を理解し、朱羽は目を見開く。
―あのなかに、
「ぁ、あ、あぁ……」
那迦は
「死ね。息絶えて死ね。……泣きながら、
「ぁははっ」
朱羽の口角がゆっくりと持ち上がり、小さく笑ったのだ。
思わぬ反応に気を取られ、那迦は手を止める。そんな彼女には目もくれず、炎上する『綺艶城』を睨みつけながら、朱羽は
「ざ、まぁ……みろ、焼け、死ね……ばーか……!!」
那迦は動揺したのか、首に巻き付く鎖の拘束が、
塞がっていた気道が
遠のいていた意識が引き戻され、身体には血が通うように力が
拘束が解かれ、鎖は撓む。
「げほ、かはッ……はぁ、はぁッ……!!」
咳き込みながら立ち上がり、朱羽は荒い息を整えていく。
その様を眺める那迦は、ただ呆然とし、まるで信じ難いものを見るように震えていた。
「…………なん、で?」
「あんたさ、くっついて歩く男女はみーんな
小刀を拾い上げた朱羽は、
・・・・・・
闇の中にあった意識を引き上げたのは、
叩きつけられた衝撃がまだ抜けないのか、全身が痺れたままだ。
「―
特に右の二の腕が
だが不幸中の幸いか、目に見える傷や、身体を動かせないほどの重傷は負っていない。地面に叩きつけられて、よく無事だったものだ—
蒼羅は足元を確認して、その理由を理解した。
どうやら、準備中の屋台の
厚い布が身体を包み、衝撃を吸収してくれたようだ。屋台の主はどこかへ行っているらしく、姿は見えない。
蒼羅は
あの爆発に巻き込まれ、『艶街』のどこかの通りまで飛ばされたらしい。
近くには
身に降りかかった
火の手が屋根や壁を
各所から上がる炎は夜空を
火消し達によって
巨大な建物を覆い尽くすほどの火焔を、鎮火させるには至らない。
「―お、いたいた」
まるで待ち合わせの相手を見つけたかのような、軽い調子の声。
そちらを
彼もあの爆発に巻き込まれたはずだが……大きな外傷は見られなかった。せいぜい、着物の一部が焼け焦げている程度だ。
それも『強運』とやらの為せる
「あんた……自分の城だろ。なんで、あんな……」
「全くだよ、俺は最上階をぶっ飛ばしただけなのにな。なんであんなに燃えちまったのか……」
呆然と問う蒼羅に、燎馬は困ったように頭を掻く。
後ろを振り返って炎上する様をしばらく眺めた後、燎馬はまるで被害者のように
「大方、裏賭場から逃げたあの男が、証拠隠滅のために爆弾かなんか仕掛けてたんだろ。それが運悪く爆発しちまったらしい。……全く、してやられたよ」
「
『綺艶城』へと駆けようとする蒼羅に対し、燎馬は太鼓橋の中点で立ち塞がった。
無視して
「……
「悪いな少年、俺がお前を殺すのが先だ。……それにあの様子じゃ、中にいる奴らは助からない」
自らを睨む蒼羅を
言葉の間に再び『綺艶城』へ走ろうとした蒼羅を、
「だからって、見殺しにするのか!」
「あの城の中に取り残されたのなら、それがあいつらの運の尽きってだけだろ。わざわざ助ける必要はない。……そういう“流れ”だ」
叫ぶ蒼羅に、燎馬は平然とした調子でそう返す。
受け止められた脚を切り返しての前蹴り。あまりに素早い一蹴を目で追えず、蒼羅は再び腹を蹴られる。
「あんた、それでも街を預かる人間か……なんでそんな平然としてられるんだよッ!! 人の命は、そんな簡単に諦めていいもんじゃないだろうが!!」
後退し膝を突いた蒼羅が
「少年。人や物ってのは、絶えず流れて移り変わっていく。変わらないものは無い。……だから残そうとするだけ、守ろうとするだけ無駄なんだよ」
やるせない調子で、
燃え上がる
焔が放つ逆光の影に塗り潰され、その表情は読めない。
「命も同じだ。人はいずれ死ぬ……それが速いか遅いかの違いだけ。城に取り残された奴らは運悪く死ぬ。俺たちは運良く生き延びた。それだけのことだ」
「それだけ、だと……?」
燎馬の言葉を聞きながら、蒼羅は割れんばかりに歯を食いしばる。
「もちろん、命ってのは簡単に諦めていいものじゃない。今の俺は平然としてるんじゃなくて、そう装ってるだけだ。俺だって悲しいし、
燎馬は
「だけどな、それもまた運なんだよ。
「人って生き物は、天運には逆らえない。だから俺は、運に身を任せて生きていく。……そうとでも割り切らなきゃ、生きていけないんだよ」
燎馬の最後の一言は、少し寂しそうな色を帯びていた。
それを聞いて、蒼羅は気付いた。
彼が語る信念。
並べ立てる言葉。
その全てが、深い諦観から来るものだと。
この男はなにもかもを諦め、“流れ”に身を任せているのだ。
起こる出来事全てに興味や関心を抱かず、そういうものなのだと割り切る。
自身の中で揺れ動く感情さえ、
―だから他人の命さえ、こいつは簡単に
「少年、そんなに怖い顔すんなよ。これは致し方ないことさ」
届いた声はあまりにも軽薄で、希薄。
その軽率な態度に、蒼羅の感情が爆ぜた。
「お前も、一緒だ」
自分で思っていたよりも声は冷たく、暗い。
燎馬はその言葉に、心外だというように息を吐いた。
「命を平気で奪う人間、命の重さをまるで感じてない人間だ。俺の人生を
蒼羅が紡ぐ言葉たちは、次第に
その熱源は脳裏に蘇る記憶。
忘れもしない、『あの日』の惨劇。
赤黒く染まった大地に、いくつもの屍が転がる地獄絵図。
その
血で染め上げたような真紅の髪。
返り血でべっとりと濡れた白い肌。
そして自分を射抜くように
忘れたことなど一度も無い。
思い出すだけで、怒りに全身が震える。
俺から全てを奪ったあの『真紅の剣士』を……絶対に許さない。
血が出んばかりに拳を握り、割れんばかりに奥歯を噛み締める蒼羅を見て、燎馬はこれみよがしに嘆息した。
「今の少年と、その『真紅の剣士』とやらはそっくりだ。
「俺はアイツとは違うッ!!」
燎馬の言葉に、蒼羅は反射的に彼を睨みつける。
しかし燎馬はその目に込められた敵意を受け、我が意を得たりと笑った。
「そう、それだ。一緒なんだよ、今のお前の眼。―人殺しの
蒼羅は更なる
彼は自分と『真紅の剣士』を—瓜二つだと言った。
自分の眼と『真紅の剣士』の—眼つきが一緒だと言った。
「……お前、知ってるのか? 『真紅の剣士』を」
胸の内に生まれた率直な疑問をぶつける蒼羅。
燎馬は一瞬、
「
「なに、を……」
言葉の意味を測りきれず、眉を
「さぁ、お喋りの時間は終わりだ。そろそろ派手に殺すぜ、少年」
その言葉の直後。燎馬が取った行動に、蒼羅は目を見張った。
彼は手にしていた
当然、中身がばしゃばしゃと
—なにをする気だ?
そう蒼羅が問うよりも先に、燎馬は口から
―それが点火の合図。
飛び散った火花は、
思わず手を掲げ顔を背ける蒼羅。熱波が収まった頃、再び燎馬を見遣ると、
—そこに、焔の鎧をまとった魔人が立っていた。
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