因縁と真相⑨
轟々と降り続ける雨の中。
立ち尽くしていた朱羽は、
「逃がした――か」
それが空気に溶けると、髪から色が抜け落ちていく。雨粒がこびりついた
身体からも
ばしゃり——
すべてが水の泡になった。
復讐はまだ
殺し切ることが出来なかった。一人だけ殺せなかった。今も、あのときも。
左半面にそっと触れる。左目はぼやけるばかりではっきりと焦点を結ばず、焼けるような痛みが皮膚を
「
悲願が叶う。その
長年溜め込み続けたこの苦しみから、重責から、解放される。
なのに、なんの感慨も湧かない。心の内では、空虚な穴が大口を開けている。
誰かとなにかを
大切な何かを、失ってしまったようで。
ふと足元に認めた
肌を
身を焦がす憎悪は、その勢いを増していく。
握り込んだ手の中で、髪飾りは
このまま力を込め続ければ、
「…………」
しかし朱羽は思い留まるように手の力を
これを身に付けていればきっと、生涯この
彼岸花には、確かこんな花言葉があったっけ――
「――また会う日を、楽しみに」
ひとり
――あれ?
そのときになって初めて気付いた。
目頭は熱を持ち、世界がゆっくりと滲み始める。
わからない。わからない。わからない。
――なんであたし、泣いてるの?
・・・・・・
「――ぁぐ、はッ……はぁッ、はッ」
大木の根を
まともに動かない身体をそれでも引きずりながら、
これを追えば、あの
逃げられる体力もない。先ほどの
肌は蒼白になり、嫌な
追ってこなかったとしても、
斬られた右目が映す世界は赤一色。残る左目の視界が白く
——俺は一体、なにを
悲願は達せず、本懐は為せず、無様に逃げ帰ってきただけ。
復讐を
目に映る景色が全て白く染まり、やがてその最果てに並ぶ二つの人影が見えた。
遠目でも分かる、見覚えのある懐かしい姿が。
父さん。
母さん。
もうすぐ、俺もそっちに逝くかもしれな——
泥濘を踏む音が聞こえて、意識は幻想から現実へと立ち戻る。
ついに来たのだ。追手が、
「
しかし、響いた声は予想とはまるで違うもの。
「やっと書類仕事が終わって出てきてみれば……そうだよなぁ、やっぱりこういう結果になるんだよな、お前達は」
蒼羅の
「よう
いや、彼なら知っていたはずだ。分かっていたはずだ。
最悪だ――心の中で吐き捨てた。なにもかも、この男の掌の上か。
「……ッ!!」
怒りか、悲しみか、それとも悔しさか。
心の内から
腹の底で煮える熱さえやがて遠のいて、意識が
世界は暗転する。
唐突に、予告も無く閉じた暗幕は、視界から情景と色彩を奪い去る。
闇はやがてどろりとした粘度を持ち、深い海へ沈められたような圧迫感とともに全身を包んでいく。もがくうちに四肢の末端から飲み込まれ、侵され浸され闇に溶けていく。
雨音も、痛みも、血の味も、なにもかも。
全ての感覚が呑み込まれ掻き消されていく。
圧迫感すらどこかに消え去って、先の見えない闇の中だと言うのに不思議と心地が良かった。記憶すらもはや
闇の中で伸ばした手は、なにひとつ掴むことはなかった。
「——ありゃ、寝ちまったか。……俺に文句のひとつでも言いたげな顔してたが」
龍親は仕方なさそうに頭を
「まぁ、積もる話はまた後にしよう。俺としても、いまお前に死んでもらっちゃ困るわけよ」
・・・・・・
九条邸で目覚めてからこの方、蒼羅が唯一見える左目で注ぎ続けるのは敵意に満ち満ちた視線。
その行く先は布団に横たわる彼の隣。
「そんな
「……龍親さん、あんた全部知ってたんだろ」
他ならぬ朱羽の
朱羽の身に起きた
静かな怒りを
今の今まで
「あぁそうだ、知ってたよ。……覚えてるか? お前がまだ訓練兵のころ、俺が道場に視察に行ったこと」
龍親は
今でも鮮明に思い出せる。
訓練兵たちの
手に握る
龍親はそれを
「あのとき
「だったらどうして、俺と朱羽を組ませたッ……アイツが俺の人生を滅茶苦茶にしたって、みんなの
「じゃあ真実を知ったら、お前はそれを信じたか?」
釘を刺す龍親。激情に満ち満ちた蒼羅の剣幕を
「朱羽が『堕神一族』を虐殺した張本人だと言われたら、そのときすぐに殺せたか? ……いいや出来ないね、お人好しのお前はそんなに強くない」
反論しようと開いた口からはなんの言葉も出ず、ただ奥歯を割れんばかりに噛み締める。
悔しいが彼の言う通りだ。そんなことを言われてもきっと、口から出任せの嘘だと鼻で笑っただろう。
——朱羽はきっと善良な人間だと、あのときは心の底から信じ切っていたから。
「どうして組ませたって聞いたな。お前たちを殺し合わせないためだよ」
「……朱羽に協調性を学んで欲しいだの、俺にお目付役になって欲しいだの言ってたのは」
「後付けの
沈痛な面持ちの龍親。その眠たげな目にはしかし、今まで見たことのないほどの至極真剣な熱が灯っている。
「二人の間に情が
「そんなの……ッ」
「分かってるよ、
再び開いた瞳から、迷いの
「そう思うなら、なんで俺を助けた。こうなった以上、俺が朱羽を殺さないと思うか」
「人の心を捨て去って復讐を完遂できる
「アイツを殺せるなら、みんなの、母さんの仇を討てるなら、俺は鬼でもなんでもなってやる……ッ!!」
右目に
龍親は言うことを聞かない幼子を見る顔をして肩を
「種明かしのついでだ。お前がこのまま鬼になって
人差し指を立てる龍親に、蒼羅は眉を
「……なにか
「まぁ聞けよ」
表情こそ苦笑のそれだが、身体からは針のようにごくわずかな殺気が一瞬だけ立ち上る。
「確かに、五年前の『堕神一族殲滅作戦』をたったひとりで遂行したのは第三席の『鳥』だ。その作戦の完了を以て、反乱分子は全て壊滅と
「……は?」
「お前たちを殺したのは、もう一人の朱羽だよ。
「——っ」
ふざけるな!!
そう叫ぼうとして、龍親が飛ばした視線に
「家族を殺された朱羽は復讐のために『天照』に入った。だが、
そう言われて脳裏に蘇るのは、『
回避不可能と思われた斬撃を受けてみせた彼女は、まるで別人のようで。
あのとき、確かに『八咫烏』と名乗っていた。
「そして朱羽は、夢を見るようになった。悪を裁く正義の味方の活躍を、毎朝毎朝、嬉しそうに俺に語ってくるんだ。まるで
それでも腹の底の怒りは静まらない。彼が言葉を重ねる度に、溶岩のように音立てて煮えていく。
「アイツが『
『―あたしね、昔の記憶が無いの』
『いや、抜け落ちてるって言った方が正しいのかな。過去の記憶を、所々しか覚えてない』
『物心ついてから数年の記憶は残ってるの。でも、そこから先の出来事がいくつか思い出せない。順番もぐちゃぐちゃで、いつのことなのか分からない。数年間の記憶が、綺麗さっぱり無くなってる所もある』
もはや思い出すだけで腹立たしい朱羽の声が、いつかの夜に交わした会話が脳裏に
だが理屈は理解できても、感情がそれを良しとしない。震える唇から吐き出されたのは、度を超えた理不尽に対する静かな怒り。
「……だから許せと? あれは朱羽自身の意思じゃないから、姿形が瓜二つの別人だから……だから朱羽は悪くないと?」
「そうだ。……なにより、お前には朱羽に
「ふっざけんなッ!!」
至極真剣な調子で紡がれた最後の言葉に、今度こそ蒼羅は
「朱羽の過去なんか知るか!! 俺はアイツになにもかも滅茶苦茶にされたんだッ、そんな道理が――」
「通るよ。鳳仙家を滅亡に追い込んだのは、お前の父親だからな」
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