因縁と真相⑨

 轟々と降り続ける雨の中。

 立ち尽くしていた朱羽は、つむっていた両目をゆっくりと開ける。


「逃がした――か」


 自嘲じちょうゆがんだ唇から吐き出される、小さなうめごえ

 それが空気に溶けると、髪から色が抜け落ちていく。雨粒がこびりついた血糊ちのりを洗い流していくように。流れるように紅色べにいろの熱が失せ、白く冷え切っていく。


 身体からもこもっていた熱と力が抜けていく。右腕はだらりと垂れ、握っていた刀が手から滑り落ちた。

 ばしゃり——あぶく飛沫しぶきを立てて黒い水面みなもに沈んでいくのを見ながら、空いたてのひらを握り込む。指の間から血がにじむほどに強く、強く。


 すべてが水の泡になった。

 復讐はまだ完済かんさいしていない、完遂かんすいしていない、完成していない。

 殺し切ることが出来なかった。一人だけ殺せなかった。今も、あのときも。


 左半面にそっと触れる。左目はぼやけるばかりではっきりと焦点を結ばず、焼けるような痛みが皮膚をさいなみ続ける。


堕神おちがみ蒼羅そら


 悲願が叶う。その道標みちしるべがやっと見えた。

 長年溜め込み続けたこの苦しみから、重責から、解放される。


 なのに、なんの感慨も湧かない。心の内では、空虚な穴が大口を開けている。

 誰かとなにかをつないでいた糸が、ぷつりと切れたようで。

 大切な何かを、失ってしまったようで。


 ふと足元に認めたあかい輝き——彼岸花ひがんばなの髪飾り——を拾い上げる。

 肌を甘噛あまが恋慕れんぼの情は、胸を締め付ける寂寥せきりょうは、やがてくすぶる暗い炎のたきぎと変わる。

 身を焦がす憎悪は、その勢いを増していく。


 握り込んだ手の中で、髪飾りはきしみ、いびつな音を立て始めた。

 このまま力を込め続ければ、くだくことなど容易たやすい。


「…………」


 しかし朱羽は思い留まるように手の力をゆるめると、それをふところへと仕舞しまい込んだ。苦痛を耐え忍ぶように結んでいた口許くちもとが、不意に笑みを形作る。

 これを身に付けていればきっと、生涯この憎悪きもちを忘れることはない。

 彼岸花には、確かこんな花言葉があったっけ――


「――


 ひとりつぶやくその声色はさびしげで……しかしどこか期待に浮かれるようでもあった。


 ――あれ?

 そのときになって初めて気付いた。

 嗚咽おえつのように声が震えている。何度もしゃくりあげ、横隔膜おうかくまくが歪に蠕動ぜんどうする。

 目頭は熱を持ち、世界がゆっくりと滲み始める。

 わからない。わからない。わからない。


 ――なんであたし、泣いてるの?


・・・・・・


「――ぁぐ、はッ……はぁッ、はッ」


 大木の根をい上がって背を預けると、唇が勝手に空気をむさぼっていく。

 まともに動かない身体をそれでも引きずりながら、蒼羅そらは泥にまみれて無様ぶざまって逃げてきた。


 泥濘ぬかるみにはくっきりと匍匐ほふくの跡が残っている。流れた血がくぼんだ土の影をより色濃くしていた。

 これを追えば、あの鬼神きしんは容易にここまで辿たどり付くだろう。

 逃げられる体力もない。先ほどの目眩めくらましで、身体に溜めた電気は使い切った。


 肌は蒼白になり、嫌な悪寒おかんが全身を這い回る。冷え切った身体の各所から流れ続ける濃血だけが、ひどく熱い。

 追ってこなかったとしても、野垂のたれ死ぬのはもう時間の問題か。


 斬られた右目が映す世界は赤一色。残る左目の視界が白く薄暈うすぼけていく中、自然と口角がやるせなく持ち上がった。


 ——俺は一体、なにをせた?

 悲願は達せず、本懐は為せず、無様に逃げ帰ってきただけ。

 復讐をちかい、努力を重ね、研鑽けんさんを積み、覚悟を決めた果てに待っていたのが……こんな呆気あっけない幕切れか。


 目に映る景色が全て白く染まり、やがてその最果てに並ぶ二つの人影が見えた。

 遠目でも分かる、見覚えのある懐かしい姿が。


 父さん。

 母さん。

 もうすぐ、俺もそっちに逝くかもしれな——


 泥濘を踏む音が聞こえて、意識は幻想から現実へと立ち戻る。うつむいた視界の中に、二本の足先が現れた。

 ついに来たのだ。追手が、黄泉よみ獄卒ごくそつが、終わりの時が。


涙雨なみだあめ、ねぇ……いやぁ風情ふぜいがあって俺は好きだが、こうも降られると厄介やっかいだな」


 しかし、響いた声は予想とはまるで違うもの。軽薄けいはくで浮ついた調子でつむがれる言葉に、動かぬ首をそれでも持ち上げて前を見る。


「やっと書類仕事が終わって出てきてみれば……そうだよなぁ、んだよな、お前達は」


 蒼羅の愕然がくぜんとした視線の先、唐傘からかさを差してひとりたたずむのは藍色あいいろの着流し姿。ぼさぼさの髪を揺らして、彼はいつものように緩く笑った。


「よう獅喰しばみ……いや、。まだ生きてるか?」


 九条くじょう龍親たつちか、何故ここに?

 いや、彼なら知っていたはずだ。分かっていたはずだ。

 最悪だ――心の中で吐き捨てた。か。


「……ッ!!」


 怒りか、悲しみか、それとも悔しさか。

 心の内からあふれる激情を叫ぼうにも、もう既に声も出ない。開いた口からしぼり出されるのは、かすれた息とわずかな血反吐ちへどばかり。

 腹の底で煮える熱さえやがて遠のいて、意識が暗澹あんたんへ引きずり込まれ——


 世界は暗転する。

 唐突に、予告も無く閉じた暗幕は、視界から情景と色彩を奪い去る。

 闇はやがてどろりとした粘度を持ち、深い海へ沈められたような圧迫感とともに全身を包んでいく。もがくうちに四肢の末端から飲み込まれ、侵され浸され闇に溶けていく。

 雨音も、痛みも、血の味も、なにもかも。

 全ての感覚が呑み込まれ掻き消されていく。

 圧迫感すらどこかに消え去って、先の見えない闇の中だと言うのに不思議と心地が良かった。記憶すらもはや薄暈うすぼけて、さっきまでの光景がどんなものだったかも思い出せない。


 闇の中で伸ばした手は、なにひとつ掴むことはなかった。



「——ありゃ、寝ちまったか。……俺に文句のひとつでも言いたげな顔してたが」


 龍親は仕方なさそうに頭をきながら、倒れ伏した蒼羅のそばにしゃがみ込む。


「まぁ、積もる話はまた後にしよう。俺としても、いまお前に死んでもらっちゃ困るわけよ」


・・・・・・


 九条邸で目覚めてからこの方、蒼羅が唯一見える左目で注ぎ続けるのは敵意に満ち満ちた視線。

 その行く先は布団に横たわる彼の隣。胡座あぐらをかく龍親は落胆とあきれを含んだ溜め息ひとつ。


「そんなにらんでくれるな。これでも丸一ヶ月、医者を総動員させて看病したんだぜ? 最善を尽くしても左目の視力は完璧には戻らなかったが……命があるだけマシだと思え」

「……龍親さん、あんた


 他ならぬ朱羽の義兄あになら、知っていたはずなのだ。

 朱羽の身に起きた惨事さんじも、『天照あまてらす』にいた彼女が為した虐殺ことも、二人の間の因縁も――恐らくは蒼羅の正体も——何もかも全てを。


 静かな怒りをたたえた蒼羅の詰問きつもんに、あきらめるように眠たげな目が伏せられる。

 今の今までただよわせていた煙のような雰囲気が、なにかをはぐらかすような軽薄な態度が、今度こそ神妙に改められる。


「あぁそうだ、。……覚えてるか? お前がまだ訓練兵のころ、俺が道場に視察に行ったこと」


 龍親はなつかしむように目をすがめながら、視線を宙に投げた。


 今でも鮮明に思い出せる。

 訓練兵たちの威勢いせいの良い掛け声。いつも以上の熱気に満ちた道場。

 手に握る竹刀しないの感触。視界を覆う邪魔な面金めんがね統逸とういつとの試合。反則行為を平然とやってのけた憎たらしいニヤけ面。

 龍親はそれをとがめ、不甲斐ない結果をさらした自分を激励げきれいしてくれた——


「あのとき崇木たかぎ——『師範代』から獅喰って名前を聞いて、ピンと来たんだよ。お前の義姉あねとはちょっとした縁があってな。堕神の生き残りをかくまってるのは知ってた」

「だったらどうして、俺と朱羽を組ませたッ……アイツが俺の人生を滅茶苦茶にしたって、みんなのかたきだって知っていれば、俺はッ!!」

「じゃあ真実を知ったら、?」


 釘を刺す龍親。激情に満ち満ちた蒼羅の剣幕をさえぎるその声は、いっそ冷淡とも思えるほど沈んでいた。


「朱羽が『堕神一族』を虐殺した張本人だと言われたら、? ……いいや出来ないね、お人好しのお前はそんなに強くない」


 反論しようと開いた口からはなんの言葉も出ず、ただ奥歯を割れんばかりに噛み締める。

 悔しいが彼の言う通りだ。そんなことを言われてもきっと、口から出任せの嘘だと鼻で笑っただろう。

 ——朱羽はきっと善良な人間だと、あのときは心の底から信じ切っていたから。


「どうして組ませたって聞いたな。お前たちをためだよ」

「……朱羽に協調性を学んで欲しいだの、俺にお目付役になって欲しいだの言ってたのは」

「後付けの建前たてまえさ」


 沈痛な面持ちの龍親。その眠たげな目にはしかし、今まで見たことのないほどの至極真剣な熱が灯っている。


「二人の間に情が芽生めばえれば、それが最悪の結末への抑止力になると思った。現に朱羽がお前を『死なせない』って言ったとき、俺は本当に、本当に嬉しかったんだ……だけど結果はこの通り。どうやらお前たちが真実を知ろうとする思いが、俺の予想より強すぎたらしい」

「そんなの……ッ」

「分かってるよ、所詮しょせんは俺の我侭わがまま。どう隠し通そうがいずれバレてたろう。……だが、こうしてあたり、俺の目論見もくろみは半分くらいは成功したのかね」


 苦渋くじゅうを絞り出すような未練みれんがましい嘆息たんそくひとつ、龍親は目を伏せて首を振る。

 再び開いた瞳から、迷いのにごりは消えていた。ままならない現実を受け止め、彼なりに心の整理を付けたのだ。


「そう思うなら、なんで俺を助けた。こうなった以上、俺が朱羽を殺さないと思うか」

「人の心を捨て去って復讐を完遂できる人間やつがいるとしたら、ソレは人の皮をかぶった鬼だ。そしてお前はまだ鬼じゃない。何度も言わせんな……お前に朱羽は殺せないよ」

「アイツを殺せるなら、みんなの、母さんの仇を討てるなら、俺は鬼でもなんでもなってやる……ッ!!」


 右目にてがわれた眼帯に触れ、そこから頬骨のあたりまではみ出した刀傷をなぞり、己の中にあるなにかをひねつぶすように右拳を握り締める蒼羅。

 龍親は言うことを聞かない幼子を見る顔をして肩をすくめた。


「種明かしのついでだ。お前がこのまま鬼になってたたられないよう、ひとつ勘違いを正しておこう」


 人差し指を立てる龍親に、蒼羅は眉をひそめながら上体を——義肢は治療の際に取り外されたので、右腕だけで——持ち上げる。


「……なにか誤魔化ごまかそうってのか」

「まぁ聞けよ」


 気色けしきばんで噛み付く蒼羅を、龍親は手をかざしていさめる。

 表情こそ苦笑のそれだが、身体からは針のようにごくわずかな殺気が一瞬だけ立ち上る。満身創痍まんしんそういの蒼羅をその場にい止めるには充分だった。


「確かに、五年前の『堕神一族殲滅作戦』をたったひとりで遂行したのは第三席の『鳥』だ。その作戦の完了を以て、反乱分子は全て壊滅と見做みなし、『天照』は解体された——けどな、

「……は?」

「お前たちを殺したのは、だよ。ていに言うなら、って奴だ」

「——っ」


 ふざけるな!!

 そう叫ぼうとして、龍親が飛ばした視線に射竦いすくめられた。今度は手を翳すこともなく、眇められた瞳が『黙って聞け』と雄弁に語る。


「家族を殺された朱羽は復讐のために『天照』に入った。だが、年端としはもいかない子供が血腥ちなまぐさい環境に耐えられるわけもない。そのうちアイツの心はぽっきりと折れちまった。……でもある時から、殺しをいとわなくなった。壊れた自分を守るために、もうひとつの人格――『八咫烏ヤタガラス』をつくったからだ」


 そう言われて脳裏に蘇るのは、『仏斬ぶつぎ供臓くぞう』の模倣犯との再戦。

 回避不可能と思われた斬撃を受けてみせた彼女は、まるで別人のようで。

 あのとき、確かに『八咫烏』と名乗っていた。


「そして朱羽は、ようになった。悪を裁く正義の味方の活躍を、毎朝毎朝、嬉しそうに俺に語ってくるんだ。まるで勧善懲悪かんぜんちょうあく御伽噺おとぎばなしでも読んだみたいに。……


 うれがおで嘆息する龍親を見れば、嘘や冗談ではないと分かる。

 それでも腹の底の怒りは静まらない。彼が言葉を重ねる度に、溶岩のように音立てて煮えていく。


「アイツが『堕神一族おまえら』を虐殺ころした時には、もう完全に『八咫烏』が一人歩きしてた。記憶が所々抜け落ちてんのはそのせいだ。自分を守るためのまじないが、自分の首を締めるのろいになるなんて、こくな話だがな」


『―あたしね、の』

『いや、って言った方が正しいのかな。過去の記憶を、所々しか覚えてない』

『物心ついてから数年の記憶は残ってるの。でも、そこから先の出来事がいくつか思い出せない。順番もぐちゃぐちゃで、いつのことなのか分からない。数年間の記憶が、綺麗さっぱり無くなってる所もある』


 もはや思い出すだけで腹立たしい朱羽の声が、いつかの夜に交わした会話が脳裏によみがえって、龍親の説明と符号ふごうする。不可解だった事柄ことがら合点がてんが行く。


 だが理屈は理解できても、感情がそれを良しとしない。震える唇から吐き出されたのは、度を超えた理不尽に対する静かな怒り。


「……だから許せと? あれは朱羽自身の意思じゃないから、姿……だから朱羽は悪くないと?」

「そうだ。……なにより、お前には朱羽にあがなう義務がある」

「ふっざけんなッ!!」


 至極真剣な調子で紡がれた最後の言葉に、今度こそ蒼羅は激昂げっこうした。


「朱羽の過去なんか知るか!! 俺はアイツになにもかも滅茶苦茶にされたんだッ、そんな道理が――」


「通るよ。鳳仙家を滅亡に追い込んだのは、だからな」

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