因縁と真相⑧
——雨が降り注ぐ。
最初の一滴は、一体いつから降ってきたのだろう。
空に垂れ込めた暗雲は日の光をすっかり覆い隠し、視界に映る世界の色調を、仄暗く落としていた。
街路に立ち並ぶ樹木は、墨で塗り潰されたような暗い影となって伸び、風に吹かれ宙に放り出された雨粒は、霧雨の紗幕に変わって世界を曇天色に包んでいく。
幾度と無く続く遠雷。眩いばかりの稲光とともに空が照らされると、一拍遅れて大木を圧し折るような轟音が鼓膜を打ち据えた。
強まる一方の雨足は豪雨の域などとうに超え、雨音は雑音めいて耳を打ち続ける。
久々の恵みとばかりに雨粒を呑んでいた大地も、変わり映えしない味に飽きたのか、もうたくさんだとばかりに吐き出し
やがてそれすらも飽和し、降り注いだ雨は辺り一帯の大地を覆い隠していた。
さながら湖面のようでありながらも、機銃掃射のごとく降り注ぐ雨に打たれ、澄むことも凪ぐことも許されず、爆ぜて弾けて揺らぎ続ける。
濁ってくすんだ世界で。
蒼い閃光と
互いしか見えない二人だけの世界で。
蒼羅が振るう大上段の一刀。対して半身になり右脇へ抜けた朱羽は、下段に
牙を
下がった朱羽は後方宙返り。振り乱した赤髪の毛先を鋒刃が散らし、朱塗りの下駄が
横へ流れる身体を下駄履きの足が踏み支え、相手の浮き足を切り刻まんと腕を振る朱羽。
どくん、と
――あれをまともに受けたら、義足が切断されていた。
視界の端で朱色が
神速の踏み込みから放たれる横一閃。回避は間に合わないと判じて、受け止めるため軍刀を縦に構える。
「――ふッ!!」
刃が
小太刀が軍刀に食い込んだ。
「ッ!!」
わずか一瞬ながら、怪物じみた
泥を撥ね散らしながら跳んだその瞬間、
強く
今この瞬間、
白と黒、無彩の世界で動きの
音も必要最低限――動作音と、膂力増強の拍動音だけ拾えばいい。雨の雑音も雷の轟音も遮断しろ。
身体中に
共に積み重ねた
共に潜り抜けた死線の中で、この目に
朱羽に関する戦闘記録の
今の俺なら読める。超えられる。殺せる。
開眼。蒼く
・・・・・・
聞くたびにあれほど
空で
憎悪が心の臓を焼き焦がし、怒りの熱が拍動によって四肢末端にまで運ばれ、身体に殺意が漲る。
蒼羅を殺し、復讐を果たし、全てを清算する――ここで全てを終わらせる。
思考を埋め尽くそうとする“声”を、朱羽は決意の一心で
目の前で蒼光が空を切り、大気と
常人ならまず
「――くぅッ!」
電熱で掌が焼ける。短い悲鳴が勝手に口から
――
痛みに構わず握った手首を引き寄せて、蒼羅の右肩口に小太刀を突き立てた。
肉の千切れる嫌な感触が、刃を通して掌に伝わる。白い頬に飛んだ返り血は、即座に雨粒に洗い流されていく。
「がッぁぁぁぁ――あぁああァッ!!」
激痛に脳髄をかき回され、蒼羅の表情が
全体重を乗せた体当たり。くの字に折れた身体は
・・・・・・
「――今日はこんなもんか……」
朝方と比べて標高が半ばまで下がった書類の山を見下ろす。
「失礼します」
返事も聞かずに襖を開けて
長身を赤茶色の地味な
ぱっちりとした目と
『旗本衆』でも幕府の中でも見ない顔だ――そう思いながらふと目をやった
「――お前、は」
「お久しぶりです、九条龍親さん。十五年前、お世話になったとき以来ですか」
どこか
伸びをしたまま固まっていた龍親は、はたと気付いて姿勢を正す。
「珍しい客だと思ったら……何の用だ?」
「近くの
極秘に指名手配されていた朱羽を
「長ったらしい聴取の嫌味なら勘弁してくれ」
「そんなことのためにわざわざお城まで来ませんよ」
「じゃあなんだ? ——復讐にでも来たのか、『
「知りませんね、そんな戦闘民族。それに、今の私は獅喰という名前ですよ」
はぐらかす——というよりあからさまに知っていて誤摩化している態度を前に、心胆が底冷えし苦い感情が喉に込み上げる。
——十五年前のあのときも、この女はこうやって笑っていたっけな。
戦場の
そんなこと
「私からも
ワカメみたいな頭の子なんだけどね、と言いつつ心底から心配そうな顔をする緋奈咤。それを見た龍親は、なるほど、とひとりごちる。
「礼を言うよ、おかげで間に合った。それに、あの道楽息子には良い刺激になったろ」
「そう、それなら良かった。軍服だったから貴方の部下でしょう? 会ったらよろしく言っておいて」
「厳密には違うが……分かったよ。あと俺は忙しいから、用が無いならもう——」
「もうひとつ、聞かせてもらえませんか」
言葉を切った緋奈咤は、
「どうして、あの子たちを組ませたんですか?」
・・・・・・
『
――だからどうした。
一瞬で焼き殺してしまっては、俺の気分が収まらない。そんなもので積年の
朱羽へ馬乗りになった蒼羅は、わずかな
「お前が……お前さえいなければッ」
「死ねッ、死ねッ、死ねッ!」
何度も、何度も、何度も、
「死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ねッ、死んじまえッ!!」
何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度もッ!!
血が飛び散り、
足りない、足りない、足りない、まだ足りない。
生を受けたことさえ悔いるほど、ここで
「……ぅぐッ!?」
振り落とそうとした拳が、激痛とともに止まった。痛みの発信源を見れば、二の腕を小太刀が貫いて
歯を食いしばりながら睨み付けた先。切れた口の中や
焼けて
血を操る
龍親から聞いた一節が憎悪で過熱した思考を氷結させていく中、朱羽は鬼の
「……ふふ、は、――ふざけんな」
しんと冷えた言葉が耳を刺す。
右腕を無理やり千切り飛ばそうと
義手の硬度によって刃は半ばから断ち折られ、高音が歪に反響する。しかし朱羽は構わず振るい――
視界の右半分を、銀光が縦に裂いていった。
掌に伝わる裂かれた肉の感触、噴き出す血潮の熱さ、それら全てを吹き飛ばして脳髄を焼き尽くす痛み――思わず転がり離れてのたうち回った。
「――あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ああああアアアアァッ!!」
意識までもが押し出されそうな咆哮を迸らせ、握り潰さんばかりに半面を押さえて立ち上がる蒼羅。
憎悪と呼ぶことすら
声にならない声を上げ、それぞれ
腕と刃が届く間合いへ入った瞬間、ろくに狙いも定めずに振るう。拳が頬を打ち抜く。刃が肩口を割る。身を焼き焦がす憎しみが痛覚すら消し飛ばし、怯まずに次の一撃が飛ぶ。
今や両者の動きには、本来あるべき戦法も戦術も無かった。
互いを喰らい
息を荒げ、
互いの手の内をほぼ知り尽くした
――殺す、
――殺す、
――死んでも殺す、
――殺しても殺すッ!!
だから。
いつからか視界が霞むのは……きっと雨だ、雨のせいだ。雨のせいなんだ。
視界が滲んで見えるのは、どこかで水飛沫が目に入ったからだ。
憎い、憎い、憎い、憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎いッ!!
こんなにも憎いのだから、どれだけ傷付けても心なんて痛まない。
……はずなのに。
――
肉薄した両者は互いに伸ばした左手で、互いの
迷いと、理不尽と、今この瞬間に不要な感情全て。
それらを吐き出すような声にならない絶叫が、雨音を吹き飛ばす。
――なんで、
活きている片目にそれぞれ映る互いの姿。
濡れて
仇を討てる歓喜に、打ち震えていなければならないはずだ。
負の感情全てを煮詰めた、
「――どうしてお前が鳳仙なんだ……ッ!?」
「――どうしてあんたが堕神なの……ッ!?」
ならどうしてそんなにも、哀しそうな顔をしているのか。
互いを殴り飛ばし、よろめきながら離れる二人。
もう限界など超えていて、ならば最後の一撃に
——お前を殺せば、
——あんたを殺せば、
——きっと、この邪魔な感情の
やがて轟く雷鳴が、一切の雑音を消し飛ばしたその瞬間。
限界まで
蒼羅は朱羽に、朱羽は蒼羅に。
互いへ向かい、互いへ刃向かい、
世界が
束の間の
水墨が紙の上で滲むように、淀んだ景色がまた二人の周囲を包み込んでいく。
「——が……はッ」
左脇腹から血を噴き出し、力なく倒れたのは蒼羅。
腕に纏っていた蒼雷が一際強く
——色を失った世界においてただ一つ、強烈に知覚できる色があった。
それは己の身体に刻まれた、数多もの傷から溢れ出ている色。
そして目の前に立つ少女が、その身に纏う色であった。
腰元まで伸びた髪は生き血を塗り込めたような深紅。
ぞっとするほど白い肌に斑な血化粧を乗せ、流血と返り血で染め上げられた着物は、毒々しいまでに赤黒い。
血に濡れた刀を提げるその少女の顔に、表情は無かった。
勝利を誇るわけでも、敗れた敵を嘲笑うわけでも、同情し憐れむわけでもない。
感情の揺らぎすら見えぬ紅い双眸は、敗者をただ冷たく睥睨するのみ。
腸をぐちゃぐちゃに掻き回すような怒りが腹の底から沸き上がる。蒼羅は伏していた身体を、無理やりに起こした。
凄まじい激痛が全身を走り、起き上がることを拒むように痙攣する。黒々と濁った水面には、身体から溢れた血が滝のように零れ落ちていく。
限界などとうに超えている。酷い出血で視界が眩み、満身創痍の身体に力など入るわけもない。
それでも震える身体に鞭打って、警鐘を鳴らす生存本能を捻じ伏せて立ち上がる。
もはや声すら出せない状態で、開いた口から溢れ出たのは、狂った不協和音。
声にならない声が、憤怒――あるいは憎悪とわずかな悲哀を混ぜ込んだ響きを伴って吐き出されるのみ。
それでも蒼羅は叫び続けた。
——俺は!
——お前を!!
——絶対に!!!
「 」
震える声が聞こえた。
しかし声といえるかどうかも分からない。唇が小さく震えるのが見えただけで、続く言葉はただの空白でしかなかった。
歩み寄ってくる朱羽へ、せめてもの抵抗に伸ばした左の義肢は呆気なく斬り飛ばされ、
折れていても、人の首を落とすには充分な刃渡り。熱い血に
——
身体から力が抜けていく。煮え滾っていたはずの憎悪はどこからか漏れ出て、諦めにも似た感情が心に満たされていくのが分かる。
——だけど、まだ死ねない。
開いた右の掌に、ばぢり、と紫電が弾ける。
最後の最後に振り絞った最高出力。二人の間で光が爆散し、灰色の世界を青白く染め上げた。
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