因縁と真相⑦

 湿しめったにおいのする風に当てられながら、朱羽あけはくもぞらの下を歩いていた。

 朝の散歩というには重い足取りは、進まない脚を無理やり動かすようにぎこちない。


 下駄がからころとはずむ音はいつの間にか聞こえなくなって、ふと視線を下げれば、足元は灰色の石畳いしだたみから乾いた黄土に変わっていた。

 辺りを見渡せば民家もまばらになり、目に付くのは木々が増えてきた。

 空は灰色を濃くして日をさえぎり、いくつか黒雲もたかり始めている。


 まるで己の行く末を物語ものがたっているようだなんて考えて、不安のあまり後ろをかえりみそうになって……

 弱気な自分にいな、と首を振りかつを入れ、迷いを振り切るように一歩踏み出す。


 朱羽が夜更けと同時に――――九条邸を後にしたのは、ある理由わけがあった。


・・・・・・


『“私”は、お前だ』


 深層意識の闇中あんちゅう相対あいたいした人影は、細部にいたるまで全てが朱羽じぶんだった。

 鏡写しのように瓜二つ。そっくりさんなんて次元じゃない。


 あたしとはが、 朱羽あたしの顔で笑い、朱羽あたしの声でしゃべっている——あまりの気味の悪さに寒気が走り、嫌な汗が吹き出たような気分になった。


「冗談でしょ、朱羽あたしはあたし。他に二人も三人もいないし、要らない」


 吐き捨てるようなあたしの拒絶に、“私”はあきれたような半眼で睨み付けてくる。


「勝手につくって勝手にこばんで……今度は要らないと捨てるか。我儘わがままなお姫様のままだな」


 創った? 拒んだ? それに、まるで昔からあたしを知っているかのような物言い――

 あたしは眉をひそめ、不信感と猜疑心さいぎしんとげを隠そうともせずに放つ。


「あんた……なんなの?」

『“私”は『八咫烏ヤタガラス』。……お前が作り出した、もうひとりの朱羽人格だ』


 ――瞬間、頭蓋ずがいきしむ。

 脳から記憶がえぐり出される激痛の果て、まるで埋蔵まいぞうされた宝を掘り当てたような高揚感に満たされながら、あたしはそれを


『突然に家族を失ったお前は、空になった心と身体に憎悪ぞうおを満たし、いつか仇敵きゅうてきほうむるというちかいを心のどころにして立ち上がった』


 あたしは、家族を奪った『雷神』へ復讐を誓った。

 身体を鍛え、剣術を習い、変わろうとした。

 泣き虫で弱虫な自分と決別し、“彼ら”を殺し尽くすために暗殺部隊『天照あまてらす』へ入った。


『だが、九条くじょう朱羽あけはに人は殺せなかった。お前は弱かった』


 敵を前にすれば、腕も足も斬り落とすのは容易たやすかった。致命傷ちめいしょうでなければ、どれほど傷付けても心は痛まなかった。


 だが首を落とすとなると、心臓を貫くとなると……となると、途端に身体が強張こわばった。


 どんなに自分に言い聞かせても、まるでダメだった。誰ひとり殺せやしなかった。

 あの『雷神』への憎しみと、人をあやめることへの恐怖、そして変わらない性根しょうねへの自己嫌悪――様々な苦悩に精神をつぶされた末。

 龍親たつちかの言葉——『飛べない鳥は、地面につくばっているのがお似合いだ』——にトドメを刺され、あたしは心折れた。


 ――だから、


 大好きな兄様みたいに、つよくて、やさしくて、かっこいい。

 憧れと、理想と、あたしに足りないもの全てという鍍金メッキで塗り固めた――『もうひとりの私ヤタガラス』を。


 龍親に全てを叩き折られたあの日。目の前に現れた幻は、幼いあたしが抱いていた——未来の朱羽あたし


『お前が辛く苦しい目にうときは、“私”が代わりにそれを引き受けた。誰一人殺せない優しいお前をまもるため、“私”が代わりに皆殺みなごろした。……そしていつからか、『八咫烏わたし』と朱羽おまえんだよ』


 ならば欠落した記憶は、五年の空白は――考えをめぐらそうすると、『八咫烏わたし』はまるで思考を読んだかのように答える。


『お前の過去の空白は、全て私が記憶している。お前が失った年月は、私がきてきた。そして、目覚めてから今までは、全てだ』

「なら、『白い髪の女』のうわさは……」

『あぁ、そんな風に呼ばれているらしいな。夜道を歩く“私”は』

「……嘘じゃないでしょうね」

『自分をだまし続けられるほど、お前は器用な子じゃない』


 図星を指され顔を伏せて押し黙った後、あたしは意を決して顔を上げた。


 彼女が、もうひとりの自分だというのなら。

 あたしの失った記憶が、全てそこにあるのなら。

 夢枕ゆめまくらに立つ血塗ちまみれの兄様が、まぎれもない現実であるのなら。


「ちょうだい。あたしが失った記憶を……あんたが持ってる記憶を、全部」

『あぁ、くれてやるとも』


 近付いた『八咫烏わたし』は、あたしの首に手を回して額を重ねた。母親が幼い子供の熱を測るかのように。


『お前がいまから見る景色は全て事実。夢でも嘘でも絵空事えそらごとでもない——全て現実だ。何があっても……決して目を逸らすな』


 『八咫烏わたし』の輪郭りんかく薄暈うすぼけ、渦巻く白いかすみとなって朱羽あたしと混じり合う。

 やがて闇の奥から怒涛どとうのごとくあふれ出た極彩色ごくさいしき――記憶の奔流ほんりゅうに、意識が押し流されていく。


・・・・・・


 ——もし、今まで夢だと思っていたものが、としたら?

 ——眠っている間、 まるで夢遊病のようにとしたら?

 ——他でもないあたし自身の目で、だとしたら?


 深層意識に潜る前に抱いていた懸念けねんたちは、はからずも全てが的中していた。


 『白い髪の女』は――他でもない、

 そして、夜道に立つ血塗れの兄様は――信じたくないけれど――のようだ。


 ――じゃあ、血の海に沈んでいるは兄様が?

 ――そして、そこに居合わせた“私”は何をしていた?

 分からない。記憶の大部分が戻っても、“夢”の細部にはもやがかかったままだ。


『それでも俺は、お前が……九条朱羽が、人を殺すような人間だとは思えない』


 蒼羅そらはこんなあたしを信じてくれた。信用してくれた。信頼してくれた。


『過去のことなんて、いつまでも引きっていいもんじゃない。俺は今のお前しか知らない。過去のお前がどうだろうと関係ない。だから根掘り葉掘りかないし、これ以上は余計な詮索せんさくもしない……その方が、お前も楽だろ?』


 彼なら、きっとありのまま全てを受け入れてくれるかもしれない。


『俺が勝手にそう思ってるだけだよ。それを裏切るかどうかはお前の勝手だ。……出来れば裏切って欲しくないけどさ』


 でも、だからこそ、この先へは巻き込めない。これ以上は裏切れない。


 あたしが引き返すための居場所を、暖かな陽だまりを、どぶのように薄汚れた手でけがすわけにはいかない。

 これは、あたしひとりで片を付けるべき問題だ。もう彼のそばにいるべきじゃない――だからこうして、また一人を選んだ。


 朱羽は頭にした彼岸花ひがんばなの髪飾りに触れ、次いで顔の脇に垂れた髪をすくい取る。


 ――分かってくれたかな。あたしの気持ち。

 ひとつだけあるは、後の楽しみに取っておこう。

 いつかまたえたなら、今度は正々堂々、真正面から。

 『月が綺麗』だなんてで誤魔化さないで、ちゃんと伝えるんだ――



「朱羽っ!!」



 歩き出そうとして背中にすがり付いてきたのは、


「……どこ、行くんだよ?」


 今だけは聞きたくなかった彼の声だった。


・・・・・・


「朱羽っ!!」

 

 目覚めたら姿を消していた朱羽を探して半日。

 中央区を駆けずり回ってようやく辿たどり着いたその背に、


 蒼羅は小さな違和感を覚えていた。


 ひどく冷徹れいてつ性悪しょうわるな性格かと思えば、気が強く負けず嫌いで、その芯にあるものは誰より熱い。

 けれどどこか不安定でもろく、目を離したすきに砕け散って消えてしまいそうにはかない。

 それが、蒼羅が知る九条朱羽のはずだった。


 しかし、いま目の前に居る彼女の雰囲気は、それらとはどこか違っている。

 余所余所よそよそしいような。

 距離を置かれているような。

 なにかが決定的に変わってしまったような。


「……どこ、行くんだよ?」


 気付けば、蒼羅は腕を伸ばしていた。

 去っていく背中をこのままながめていたら、もう二度と手が届かなくなってしまう気がして。


「思い出したんだ。あたしが『天照』でなにを為したのか……そしてなにをのか。 全部、全部思い出した」


 首をめぐらせて視線だけ流してくる朱羽。

 その言葉を聞いて、目標へ突き進む強い意志を感じ取って、違和感がに落ちる。


 欠けていたものが、抜け落ちていたものが、全てそろったのだ。


 今の朱羽からは、内包していたはずの弱さと脆さが完全に消え去り――その相貌そうぼうには、人殺しの冷たいかげりが差していた。

 『天照』の面々を相手取ったときと同じ寒気が、背筋を伝う。


「それと、辻斬つじぎりの犯人はきっと、あたしの——」


 口走った言葉は、きっとなにかの手掛かりだったのだろう。 

 しかしいまの蒼羅には、どんな言葉が耳に届いたとしても理解できなかった。

 そんなものよりもずっと重要なに、意識が全てかたむいていたからだ。



 ――白絹の髪が



 頭から多量の返り血をかぶるかのように。

 頭へ巡る血を、髪の一本一本が吸い上げるかのように。

 根本から染め上げられていく。塗り潰されていく。どこまでも鮮明で鮮烈な……鮮紅せんこうに。

 赤く、あかく――真紅あかく。


「ごめんね。だからもう、あんたと一緒にいられない」


 目を疑った。

 自分の両目が映す光景に、蒼羅はただ言葉を失っていた。

 信用し、信頼し、それゆえ無意識のうちに選択肢から消し去っていた可能性が——


 いまここに、最悪な現実となってあらわれた。


 脳が理解を拒否する。

 きっと疲れているんだ、昨夜ゆうべなにか悪い物を食べたんだ、錯覚だ、幻覚だ、こんなの嘘だ――

 いくつもの屁理屈へりくつを並べ立てて、目に映る現実ものを必死に否定しようとする。


 しかし鮮烈な真紅あかは視界と記憶に焼き付いて離れず……それは引き金となって、脳裏には『あの日』の地獄絵図が映し出された。


 全てを奪った『真紅しんく剣士けんし』。

 屍山血河しざんけつがの最奥で背中を向けてたたずが、なにかに気付いたようにこちらを振り返った。

 記憶の中に判然としないままこびりついていたその顔に、


 焦点が合い、

 視線が引き結ばれ、

 経年劣化でぼやけていた記憶の輪郭が、今はっきりと描き出される。


 焦がれていた相手が――

 殺すべき一族のかたきが――

 『真紅の剣士』が――


 九条朱羽と、



 奥歯を砕けんばかりに食いしばるような、いびつな音で我に返る。

 現実を認識し、停滞ていたいしていた時間感覚が正常な流れに引き戻されていく。


 どれほど黙り込んでいたのだろう。

 数秒か、数分か、それとも一瞬か。

 否定をあきらめ、現実を受け入れ――胸の内には今まで隠していた、あるひとつの感情が湧き上がってくる。

 それは蒼羅の身体に、確かな変化を生じさせた。


 はらわたが煮えくり返り、身体の芯まで熱くなる。

 義肢の内で、痛みとなって顕れた幻肢げんしわめく。

 肉の内で雷がたぎる。

 身体という器の容量を超えてあふれ出し、ばちり、ばぢり、と音を立てて肌を跳ね回る。


 怒りではない。そんな生易なまやさしいものでは、断じて。


「……お前か」


 ようやく絞り出した声は低く、暗く、冷たく。

 蒼羅が今まで押し隠していた感情――今となっては到底とうていおさえ切れぬ、激しい憎悪に震えていた。


『いつか話の続きを——あんたがを、あたしに聞かせて』

『……気が向いたらな』

『じゃ、期待しないで待ってる。約束ね』


 ——あのときの約束、いま果たしてやる。

 ——俺が本当にやりたいことは、


 『真紅の剣士』――朱羽おまえを、だ。


・・・・・・


「お前だったのか……あの日、俺から全部を奪ったのは」


 蒼羅の口から漏れ出すのは、納得、理解、諦観ていかん。感情の弦を激しい怒りで震わせかなでた、冷たくきしむ音色。


 あの日? 全部? 奪った? なんのこと?

 心中を埋め尽くす疑問符に顔をしかめているうち、朱羽は言葉を失った。


 ――


 雲もない虚空こくうでの

 電流が蛇のように彼の身体をい、鎧のごとく覆っていく。


 それを目にして、己の脳裏に蘇る光景があった。


 幾度いくどとなく遠雷の響く曇天どんてん

 異様な静寂せいじゃくに包まれた薄暗い廊下。

 閃く雷光が、そこにわだかまる闇を一瞬だけ晴らす。

 照らし出されるのは、首をられて死んだ者たちの凄絶な表情。

 苦悶くもんに満ちた今際いまわの顔。見開かれたその双眸そうぼうは、見た者全てを呪い殺さんとするかのよう。


「とうさま、かあさま、いや、いやぁ……っ!」 


 逃げ込んだ部屋の中、無惨な最期を迎えたお父様とお母様が転がっている。その前には二人をかばうように立つ、兄様あにさまの姿。

 彼との間をへだてて、が背を向けている。

 と、こちらに気付いたように“雷神”が振り返って――


 雷をまとう今の蒼羅に、


 ――嗚呼ああ、嗚呼、嗚呼!!


 瞬間、肉の内から声が響いた。

 怒りにたかぶり、憎悪にたぎる――『八咫烏わたし』の声が。

 響く。響く。頭の中で、思考の内に、怨嗟えんさの輪唱が反響していく。

 片手で額を押さえてあおいだ空は、今にも泣き出しそうに暗い。


 ――あの日、殺し損ねたが、

 ――こんなに近くにいたなんて。


・・・・・・


「今日は最悪な日だ……史上最低の厄日だよ」

「やっぱあんた……『疫病神やくびょうがみ』だわ」


 腐れ縁と利害の一致から始まった関係も、

 衝突を繰り返しながら築いてきた信頼も、

 無自覚のうちに互いへ抱いた淡い恋慕れんぼの情も、なにもかも――

 は全て、一瞬で憎悪のほむらにくべられ焼き消える。


 互いに互いが仇敵と認識した今この瞬間。二人は決して相容あいいれぬ、血で血を洗う関係に成り代わった。


 叫ぶ。叫ぶ。憎悪に怨嗟に殺意に煮え滾る声で、もはやかずとも分かる、互いの真名まなを。


、朱羽……ッ!!」

、蒼羅……ァ!!」


 提げていた軍刀の柄を握り締める。

 袖から飛び出た小太刀を握り込む。


 身体に纏う雷電が蒼く弾ける。

 絹髪は紅く色艶いろつやを増していく。


 互いへと駆ける二人の間には、言葉ですらもはや無意味で。

 必要なのはどちらかの死——ただそれのみ。


「お前を――」

「あんたを――」


 ボコボコはずの二人。

 彼らが平行線のまま歩んでいた道が、ここで初めて交わり——


「「殺してやる……ッ!!」」


 いびつ奇異きいな運命の歯車が今、ぴたりと噛み合い動き出す。

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