疑惑と刺客④
「……なんだよ」
「師範代さんは絶対やってないって、言い切れる証拠は?」
「さっきから言ってるだろ。俺には、あの人が殺しなんてやるように見えない」
「それはあんたの願望でしょ。あんたから見た師範代さんのことでしょ。あたしはそんなこと聞いてるんじゃない」
蒼羅の言葉に、朱羽は大きな溜め息を返し『分かってない』とでも言いたげに首を振る。
「……昨日の夜、師範代さんが何をしてたのか知ってるの?」
「それは……」
反論しようとして、蒼羅は言葉に詰まり
確かに蒼羅は、師範代—
彼が人を殺すはずがないという蒼羅の訴えも、
反論がないと見て、朱羽は冷たい表情のまま続ける。
「証拠が無いなら、犯人の最有力候補である以上、捕らえなきゃいけないの。……別に殺そうってわけじゃないんだから。話を聞いて、それから処遇を決めるだけ」
小さく肩を竦め、呆れるように小さく息を吐く朱羽。
―浮かべた笑みには、薄い侮蔑が貼り付いていた。
「ていうか、なにひとりで熱くなってんの? 恩人が人殺しだったとしても、別にあんたには関係のないことでしょ。運が悪かったと思って縁を切れば良いだけの話」
その言葉に顔を上げた蒼羅は、無意識のうちに表情筋がひくつくのを感じた。
「―お前、いっつもそうだよな。自分に関係なければ、すぐに他人を切り捨てようとする」
蒼羅の言葉に、朱羽は不服そうに片眉を跳ね上げる。
「……おい、二人共」
「どうせ今回も手柄が目当てなんだろ。自分の名が上がるなら、他の誰が傷付こうがお構いなしってわけだ。……傷付けられる他人の気持ち、考えたことあるのかよ」
「はっ。自分より他人を思いやれるなんて、まぁよく出来た人ね。そうやって自分の理想を人に押し付けるところ、あんたの悪い癖だから」
吐き捨てた朱羽は机の前へ戻り、手に取った人相書きを蒼羅の顔の前に突き付ける。
「勝手に抱いた理想像を裏切られるのが怖いなら、この件から降りれば? ……あたしも足手まといがいなくなって清々するしね」
「降りるかよ。あの人は無実だ、証拠がないなら俺が見つける」
「あっそ、まぁ精々頑張れば。 ―案外、殺すはずないなんて思ってるのはあんただけだったりして」
「……なんだと」
人相書きを懐にしまいながら言い放つ朱羽。その物言いに、腹の底で煮える怒りは熱量を増す。蒼羅はそれを押しとどめるように左拳を握り締めた。
「他人を完全に理解することなんて、誰にもできないんだから。師範代さんも、裏の顔はとんでもない人殺しかもよ」
「……いい加減に口を閉じろよ」
腹の底で逆巻く暗い熱と裏腹に、絞り出した声は低く冷たい。怒りを露わにする蒼羅に、朱羽は冷たい表情のまま、
「あんたのことも、
その言葉が引き金だった。
耳に届いたそれは撃鉄のように蒼羅の心を打ち、抑えていた怒りが
頭へ血が上り、視界が一瞬真っ赤に染まったかと思うと—
気付けば、朱羽の右の頬を思い切り殴り付けていた。
後ろへよろめいた朱羽が机に手を突き、積み重なっていた書類の山がその衝撃で
「……お前の手は借りない」
冷たく睨みつける蒼羅。しばらくぶたれた頬を押さえていた朱羽は、
「……勝手にすれば」
切れた口の端から伝う血を手の甲で拭うと、小さく吐き捨てる朱羽。
彼女を今一度睨み付けた後、蒼羅は肩を怒らせ部屋を後にした。
・・・・・・
蒼羅が去った後。
机から落ちた書類を拾い集めながら、龍親は困ったように頭を掻いた。
「朱羽、いくらなんでも言い過ぎだぞー。お前はその皮肉屋なところを―」
「ムカつく……あいつ見てるとイライラする……ッ!!」
しかし朱羽から返ってきたのは、
頭をかきむしり苛立ちを露わにする彼女に、龍親はその心中を
「他人なんて切り捨てるに決まってるでしょ。腹の底でなに考えてるのか分からない奴を、一から十まで信用できるわけないもの」
朱羽は理解を
「なんなの、あいつ。その人の一側面を知ったくらいで、全部理解した気になって、善人だと思いこんでる。外面が良いだけかもしれないのに。……
俯きながら吐き捨てる朱羽。
「なぁ、これ拾うの手伝ってくんない?」
床に散らばった紙を指差す。
振り返った朱羽が仕方なさそうに肩をすくめるのを見て、龍親がぱぁっ、と表情を明るくする。
「―自分でやって」
その瞬間、朱羽は彼を冷たく突き放して歩き去っていく。
部屋には、物悲しげな表情の龍親だけが残された。
・・・・・・
「組むって……貴方と?」
「そうそう。あんな『疫病神』とは関係を解消して、僕と手を組んだほうが良い」
朱羽が
幕府老中である
朱羽は今、
龍親を見捨てて部屋を出た後。気分転換に立ち寄った茶店で、いきなり向かいに
人と話したい気分では無かった朱羽はすぐに別の席へ移ろうとしたが。
『僕と組まないか?』—そう引き留める
「ま、話くらいなら聞いてあげる。
「そうか、乗ってくれるか」
「条件が良ければ、組んであげても良いけど」
「心配いらないよ。良いに決まってるさ……あんな疫病神よりも悪い物件なんて存在しない」
「ふぅん。……貴方と組むことで、あたしになにか得があるの?」
白々しいほどの愛想笑いを浮かべる統逸を、朱羽は
単刀直入。本題へ切り込む彼女の冷え切った視線に、統逸は
「……意外だな。君が損得勘定で動いているとは」
「他人と分かり合うなんて不可能でしょ。あたしは、一から十まで他人を信じない」
「だから、組むのは利害の一致した相手だけ。あたしになにか利益をもたらしてくれる人となら、手を結んであげる。……貴方はあたしに何をくれるの?」
殺人犯を前に敵前逃亡したとはいえ、幕府老中の
朱羽はかつて
しかし、蒼羅との口論による苛立ちを
朱羽の神経は今、触れた者を誰彼構わず傷つける、鋭利な刃のようにささくれ立っていた。当然、言葉の端々にもそれは滲み出てしまっている。
しかし統逸は気に留める様子も無く、
「そうだな……まず親父がいる。君の
「へぇ……他には?」
—所詮は親の七光りか。
顔に笑みを貼り付けて興味をそそられたフリをしつつ、続きを
「君も、今の地位に満足してるわけじゃないだろう? 『旗本衆』四天王の地位に就けるよう、親父に僕から融通してあげるよ」
統逸の語気は段々と熱を上げていく。
まるで、意中の女子に気取ったところを見せたがる、良い格好しいのように。
「いや、どうせなら『筆頭補佐』とか新しい役職を作ってしまうか。そうすれば君は二番手まで昇格—」
「それだけ?」
笑顔から一転。
朱羽は目を伏せ、心中に
「い、いや……それだけじゃないさ。親父の力を借りればもっと―」
「あんたは?」
「は? 僕?」
「あたしは、あんたと手を組む話をしてるの。あんたになにが出来るか聞きたいの。それなのにお父様の話ばっかり。権力自慢なら
「—ッ、馬鹿にするな!!」
冷笑を浮かべて肩を竦めた朱羽の
並べ立てられていた茶や菓子が散乱するのにも構わず、さながら火山の噴火じみた勢いで立ち上がった。
「そういえば、君はあの疫病神に剣の
疫病神—蒼羅への
「僕は強い。君の背中を守るくらいなら造作もないよ」
「……がっかり。これなら蒼羅の方がマシ」
朱羽は呆れたように首を振って席を立った。
統逸は
「何故だ。あんな出来損ないの
「あんたさ。剣の稽古で、死ぬほど
足を止め、振り返らないまま朱羽は冷たい声で問いかける。それに対し、統逸は非常識な者を見るような半笑いで答えた。
「あるわけないだろ、稽古なんてお遊びだ。死ぬ気でやるもんじゃない」
小馬鹿にするように浮ついた声が耳に届くと、朱羽はまたも問う。
「手に血豆ができるほど、竹刀を振ったことは?」
「だから、稽古で怪我するわけ―」
「組み手で何回ぶちのめされても、立ち上がったりした?」
「誰かのために、身体張ったことある?」
「他の誰かの為に、自分の命を捨てられる?」
次第に
朱羽にとってはその態度こそが、質問への返答に値するものだった。小さく
「良い? 耳の穴かっぽじってよく聞いて、勘違い野郎。あんたは上に立つどころか、並んですらいない……あんたは蒼羅よりずっと下の人間。そんな奴に、アイツの努力を
「今度あたしの前で蒼羅のこと馬鹿にしたら……その腐った舌、斬り落とすから」
振り返った朱羽。その零度の視線に射抜かれ、統逸は青ざめた顔で大袈裟に後ずさった。
心臓に冷えた刃を刺し入れられた—そう錯覚するほどの寒気が、彼の心胆を凍えさせたのだ。
かつて己が相対し、そして逃げ出した殺人鬼の影さえ幻視するほどに。
「……す、
背後から聞こえた
角を曲がり壁に背を預けた彼女は、自らを
「らしくないな。なーに熱くなってんだか……」
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