白と黒⑥

 部屋まであと数歩という場所にいた蒼羅の心臓は、一瞬止まった。


 ―バレたか!?


 全身から嫌な汗が吹き出す。

 蒼羅は息を殺しながら、再び動き出した心臓が飛び出さんばかりに暴れ出すのを必死に押さえ込む。


 目を四方八方へ動かし周囲を探る。出口はひとつ、さっき上がってきた階段のみ。

 物音を立てないようにあの距離を進むのは無理だ。緊迫に追い立てられるように全身の感覚を研ぎすませていると、また声が聞こえた。


「あんた、ここでなにしてんの?」


 部屋の中から響いた歳若い少女の声には、聞き覚えがあった。

 記憶よりも、幾分いくぶん刺々とげとげしさが増しているようにも思う。

 さっきの問いは、自分に向けてのものではないようだ―蒼羅は胸を撫で下ろすと、部屋に近づき、襖から少しだけ顔を出して内部をうかがう。


 手前に白髪の少女、そして奥に墨色の着流しの男。二人は刀二本ほどの距離で相対していた。

 最低限の調度品がしつらえられた十数畳ほどの部屋は、あちこちに飛んだ血飛沫で汚されていた。二人の間には四肢を切断された死体。その心臓には墓標のように刀が突き立っていた。

 部屋の内部を把握したあと、蒼羅は改めて相対する二人へ視線を戻す。


「なにをしているか? 死体を丁重にとむらっていたところだ」

「ふぅん、自分で殺した相手をわざわざ弔うなんて、変わってるのね」


 冷たい声を返す白髪の少女の身なりは、白い着物に、膝上まで切り詰めた赤い女袴と足先に朱塗りの下駄。

 白粉や紅などの化粧はなく、帯の柄や身につけた飾りなど仔細しさいは違えど、一週間前に見たときとあまり変わらない。


 対する男の身なりは、異様なものだった。

 着流しからのぞく肌は全てすすけた包帯で覆われている。室内だというのに黒い編み笠をかぶり、その目許は見えない。


 会話の内容から察するに、この男が下の階の惨状を作り出した犯人。つまり模倣犯その人だ。

 白髪の少女がそうだと考えていた蒼羅のあては外れた形になり、心中には罪悪感がわき起こる。


「お前はおくさないのだな。女だてらに、幕府の連中よりもよほど肝が座っている」

「もしかして褒めてくれてんの? ―ありがと。ぜんっぜん嬉しくないけど」


 軽口さえ返してみせるほどの余裕を見せる少女に、男の顔で唯一見える口元が笑みに歪んだ。男は少女へ歩を進めながら、その道中で死体から引き抜いた刀を半月を描くように振りかざす。


「次の獲物を探しにいく手間が省けた。お前もここでにえとなれ」

「はっ、冗談」


 強い口調で男の言葉を突っぱねた少女がその右手を軽く振ると、いつか見たのと同じように、鞘に収まった小太刀が袖から飛び出した。少女は細い指で鯉口こいぐち近くを握り込み、親指でつばを押し上げる。

 涼やかな音が響いた刹那、それを合図とするかのように男が一気に距離を詰めた。


 男は片手で振りかざしていた刀を袈裟懸けさがけに振り下ろす―と見せかけてさらに手首がひるがえり、一閃は右から少女の胴をぐ軌道へ変わる。

 不意を打つ初手に、しかし少女は慌てる様子もなくその場で前へ跳躍。着物の裾を翼のように翻し、男の編み笠を跳ね上げるように前へ蹴りを放った。

 男は振り切ろうとしていた刀から片手を離し顔の前へ。骨と肉がぶつかる鈍い音のあと、少女は男の胸を蹴りつけて後ろへ飛ぶ。


「お前の意見などいらん。俺の望み通りにただ死ね」

「死ねって言われて死ぬ奴がいると思う?」


 距離を離した少女へ模倣犯が追いすがる。駆けた勢いを乗せた横薙ぎを、少女は屈みながら抜き放った小太刀でいなす。

 火花が辺りに散る中を、少女は姿勢を低くして懐へ飛び込む。刀で薙いだことによって空いた男の左側へ躍り出ると、床を舐めるような下段からの横一閃。

 自身の足をぎにくる刀に、男は左足を庇うように刀を畳に突き刺した。直後に甲高かんだかい音を立てて鋼が噛み合い、少女は阻まれたことに舌を打って距離を取る。


 即座に男は刀の柄に空いた左手を添えると、畳に突き立ったままの刀を力任せに振り上げた。藺草いぐさを千切りながら首へ向かう刃を少女がさらに後ろへ転がって避け、切っ先は天井を指してぴたりと止まる。休む暇を与えぬようにか、即座に男はなおも膝をついたままの少女へと距離を詰める。


 少女は膝をついた姿勢から、間合いに入った男の足を払う。少女の白い足が畳を撫でていくのを男は軽い跳躍で避けると、掲げていた刀を大上段から振り下ろした。膝立ちの姿勢に戻った少女は、握った刀のみねに空いた右手を添えて受け止める。

 鋼が噛み合う音が再び響いた直後、旅籠はたご全体を揺らすほどの着地の衝撃で土ぼこりがき立った。


 再び膝をつかされた少女は足に力を込めながら、自身の左側へ刀をいなす。立ち上がりざまに男の右側を滑るようにしてくるりと回り込むと、そのまま、男の背へ刀を袈裟懸けに振り下ろす。


 しかし響いたのはみたびの金属音。


 少女は目を見開く。背を裂くはずの小太刀は、男が背に回していた刀に阻まれていた。男は刀をいなされたあと、それを逆手に握りなおし脇腹のあたりから背にわせていたのだ。

 男が自らの身体ごと左回りに回転して刀を弾き、少女も弾かれた勢いを利用してくるりと右へ回りながら距離を取る。着流しの裾がばさりと、着物の袖がふわりと空を舞う。


 手首を返しながら流麗りゅうれいな動作で順手に握り構える男と、首を振って乱れた前髪を直しながら下駄のつま先で畳を小突く少女。

 部屋の中央で再び向かい合う両者に呼吸の乱れはなく、汗一つかいていない。

 互いが互いを相当な手練てだれと認識した上で、改めてその隙を探るためにらみ合う。


 しばし無言の間が続く中、そんなことなど知らない蒼羅は、その光景に目を奪われていた。


 少女が動き、男が迎え撃つ。

 両者の間で銀の光がいくつも瞬き火花を散らす。

 蒼羅の動体視力でさえもはや見取ることさえ不可能な剣技と体捌たいさばきが、次々と目の前で披露されていく。


 二人の顔にもはや余裕はなく、攻撃はより苛烈かれつなものへ変化していっている。繰り広げられているのは間違いなく殺し合いでありながら、演舞や剣劇を見ているような錯覚さえ覚える。

 それほどまでに次元が違う。


 今までひたすらに日々の鍛錬を積み、道場で慣れない竹刀しないの素振りをしていただけだった。

 にぎやかしのための演舞や剣舞を見たことはあれど、命を賭けた『殺し合い』など目にする機会はなかった。


 蒼羅にとっては、いま自分が見ている景色はそれこそ夢や幻、お伽噺とぎばなしの中のようなものでしかなく―そんな浮世うきよ離れした目の前の光景を、今の蒼羅はただただ固唾かたずを飲んで見守るしかなかった。


 少女の顔が苦痛にゆがみ始める。体格と膂力りょりょくで上回る男の攻撃を次第に捌けなくなっていき、やがて甲高い音を立てて弾かれた小太刀が床に転がった。

 対抗手段を失った少女はただ前を見るのみ。

 男はその脚に蹴りを見舞って膝をつかせると、細い首をねるべく、横薙ぎが繰り出される。

 そして首が飛ぶのだ―


 その光景を呆然と見ていた蒼羅の全身に衝撃が走った。

 心地の良い夢を見ている最中に、いきなり冷水を浴びせられたようだった。


 ―違う、これは夢でも物語でもない。現実だ。


 このままいけば少女は死ぬ。

 四肢を断たれ、心臓に刃を突き立てられて、部屋の中や階下の死体のように、あるいはそれ以上にむごく殺される。


「―危ないッ!」


 思わず叫び、考えるよりも先に身体が動いていた。

 二人の間に割り込んだ蒼羅は、すかさず少女をかばうようにして、腰から引き抜いた軍刀で男の刀を受け止めた。

 甲高い音が耳を叩き、軍刀に、びし、とわずかにヒビが入る。すさまじい衝撃に後ずさるも、蒼羅は足に力を込めて踏みとどまり、全身の力を使って男の膂力に対抗する。


 拮抗きっこうする二人の力、そのしろとなった二振りの刀は金属質の悲鳴と火花を上げ続ける。


「おおおおおッ!!」


 蒼羅はしびれる手をそれでも握り込んで、力任せに押しのけた。

 編み笠の男は後ろへたたらを踏んだあと、ふんとひとつうなって顔を上げる。露わになった編み笠の下、興味深そうに蒼羅をめ付けるその眼は洞穴どうけつのように暗く、汚泥おでいのようによどんでいた。


「もう一匹いたか」

「あんたは……」


 背後から少女のほうけた声。振り返りたいのは山々だが、眼前の男がどう動くか分からない以上、眼を離す訳にはいかない。

 正眼に構える蒼羅と下段に構える男が睨み合う。緊張した空気がじっとりと全身を包み、嫌な汗が吹き出た。


 ―どう動く。どこから来る。どうすればいい。助けはない。俺ひとりの実力でこの男に勝てるか?


 様々な思考が浮かんでは消える。恐慌きょうこう状態に陥りそうな思考を気力でどうにかつむぐ。

 どうあれまずはこの男をどうにかしなければ、明日はない。

 思考する蒼羅を他所よそに、男は刀を両手で握り直す。きん、と鋼が鳴る音の直後、ゆらりとその身体が傾いた。

 ―来る!

 全身を強張こわばらせる蒼羅。

 しかし男はこちらへ一歩踏み込んだ瞬間、ぴたりとその動きを止めた。


「え?」


 きょかれた蒼羅は思わず声を出す。男は包帯を巻かれた右手を刀から離し、不思議そうに眺めていた。

 見れば、その手は微細に震えていた。


「贄が増えたのは喜ばしいが……時間だ」


 震える右手を握りしめた男の錆びた声が、名残惜しそうに響いた。

 男は構えたまま固まる蒼羅と、その背後で膝をつく少女をそれぞれ一瞥した後、二階の障子窓へ走り、勢いのままそれを突き破って外へおどり出た。


「―待て!」


 紙片や木片もろとも落下していく男を見て呆気あっけに取られていた蒼羅は、背後からの少女の鋭い声と、部屋に吹き込んだ冷たい夜風で我に返った。

 いつの間にか脇をすり抜けた少女が窓へ駆け寄っていくのを追う。


 二人は破られた窓から身を乗り出すようにして外をうかがうが、眼下に広がる通りの景色の中には、既に男の姿はなかった。


「逃がした……」


 左から聞こえた少女の声に顔を向けると、目尻の下がった猫目にはわずかな落胆があった。少女はひとつ息を吐き、そのまま白い髪を揺らして踵を返す。


「ありがと、また助けられたねケーサツさん」

「なぁ、おい、待ってくれよ」


 礼だけ言って歩き去ってしまう少女の背に声をかけるも、当の少女は蒼羅の呼びかけに答えようともせず、すたすたと廊下を渡り、階段を下り、血の染み込んだ床を越えて、夜半よわの空の下へまで出て行ってしまう。


「なぁ待てよ待ってくれって。あんた、あの『朱羽屋あかばねや』だろ。なんだってこんな場所に。それにあの剣技は―」


 脚を止めて振り返った少女は、矢継やつばやに質問しながらずんずん詰め寄ってくる蒼羅に手をかざして制し、頭痛をこらえるようにこめかみを押さえる。


「待って待って、質問はひとつずつにして」


 つんのめるように足を止めた蒼羅はひとつ咳払い。指をひとつ立てて少女に問う。


「あんた、あの『朱羽屋』だろ?」

「あの『朱羽屋』ってのがどの『朱羽屋』だか知らないけど、たぶんその『朱羽屋』よ。こんな見た目してる人、他にそうそういないしね」

「なんだってこんな場所に」

「追ってたの、あの包帯ぐるぐる男。あれが巷で話題の『仏斬ぶつぎ供臓くぞう』の模倣犯ってやつでしょ」

「それにあの剣技は」

「いつもやってる剣舞みたいに、おどるように戦えたら綺麗なんだろうけど……あたしはそこまで器用じゃないの」

「………………」

「……終わり?」


 言葉に詰まる蒼羅を見て、少女が小首をかしげる。

 蒼羅はてっきり、刀剣の所持を問いただしたときのように答えをしぶられるものだと思っていたのだ。

 少女が意外にもすらすらと、よどみなく答えてきたものだから、呆気に取られてしまっていた。


「―あ、いや、もう大丈夫だ。それより」


 蒼羅は言葉を切って後ろを振り返る。

 視線の先—未だ強い腐臭を吐き出し続ける旅籠を眺めながら、蒼羅は悲痛に目を細めた。


 無関係の一般人に、捜索隊の人員……今日一日だけで多くの犠牲が出た。

 血の海に浮かぶ凄惨せいさんな死体の島が脳裏に焼き付いて離れない。この先もあんな光景を見るのはごめんだ。

 『仏斬り供臓』の模倣犯―あの編み笠の包帯男を、一刻も早く捕まえなくてはならない。


 意を決して蒼羅は少女へ向き直ると、左手をその細い肩に置き、目をまっすぐに見据えながら口を開いた。


「あんたも『仏斬り供臓』の模倣犯を追ってるんだろう? 俺にも手伝わせてくれ。俺は蒼羅―獅喰蒼羅。あんたの名前は?」


 少女は蒼羅の提案に目を見開いたあと、『質問はひとつずつって言ったでしょ』と苦笑しながら、己の名を口にした。


「―あたしは朱羽あけは。『朱』色の『羽』と書いて朱羽」


 そして朱羽と名乗った少女はにこやかに笑って、こう言った。



「お断りします。あたし、人とつるむの嫌いだから」



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