火事と喧嘩③
「さぁ、しっかり働くんだよ」
直方体の
通りの反対側にも
格子の隙間からわずかに
通りを行き交う人が増え始める。そろそろ
「……ふぅ」
一息つき、朱羽は鼓動を抑え込むように左胸に手を当てた。
大抵のことには動じないし、どんなことでも器用にこなせる自負はある。
それでも緊張や不安を感じないわけではない。
が、見つけてもらおうとして下手に騒げば目立ってしまう。
他の男に目を付けられると面倒だし、まさか蒼羅も、あたしの顔を忘れるほど馬鹿じゃないはず。
ここは、部屋の奥で目立たないようにじっとしておこう。
—まるで、店先に並び立てられる商品だ。
作戦だから仕方ないとはいえ、物のように扱われるのは鼻持ちならない。
そして、それを
朱羽は、すぐ隣に座り込んでいる遊女を
二十代半ばほどのその女性は、ひどく
化粧で
周りと違う雰囲気が気になってしばらく見つめていると、こちらの視線に気付いたのか、彼女も顔を上げて朱羽を見た。
じろじろ見ていたとあっては失礼だ。
目が合う前に顔を逸らそうとして、朱羽の耳に声が飛び込んできた。
「見ない顔だね。……新しく入ってきた子かい?」
『
思わず顔を
見た目通りの優しい性格なのだろう。
「えぇ。父親の借金のせいで、身売りされてしまって……」
「それは大変だったね……こんなに若いのに」
適当な理由をのたまって苦笑してみせると、女性の表情は悲痛なものへと変わる。
作り話の真っ赤な嘘を信じ切って、こちらを心配そうに見つめる女性。目には、わずかに涙が
その反応を『
善良な人間を
その
細くて綺麗な指だな、と朱羽は思った。
「ここにいるみんな、同じようなものだよ。借金で身売りされたり、捨て子だったり、文字の読み書きができなかったり……表の世界じゃ生きられなくて、ここに流れ着いた
「……え」
その言葉に、朱羽は
改めて周囲を見回す。格子の中には、自分より年の低い童女の姿も見えた。
「それでも表の世界に戻るために、みんな必死になって
そう語る女性の目には希望の光が灯り始める。
「文字の読み書きを覚えれば、出来る仕事が増える。
言葉を切った女性の顔は、再び
「だからここで色を売ることを、みんな仕事だからと割り切ってる。だけど私は、どうしても踏ん切りが付かなくてね……」
そう言って女性は、どこか
朱羽はそれに対し、内心を隠すように
・・・・・・
通りの
その光のひとつひとつが、美しい宝飾品の
金、銀、赤、青、黄、緑、紫。
色とりどりの光に溢れる部屋の中。
蒼羅がその光景を見て連想したのは、くすねてきた財宝の山を前に笑う
そう見える原因は、
「悪い、いま
「そう言わずによ、見るだけでもいいさ」
妙なものを売りつけられる前に断ろうとするも、老爺は意地悪く笑い返すのみ。
見るだけでも良いとは言うが……蒼羅は眉を
目の前の老爺はどうにも胡散臭く、路地裏に店を構えるというのがいかにも怪しい。
軍服を着ていれば、こんなことに首を突っ込むことはなかったかもしれない。
そもそも、蒼羅は装飾品の相場もよく分かっていない。
法外な値段をふっかけられて、ぼったくられる気しかしない。
「―これなんかどうだい。綺麗だろう?」
そう言って差し出されたのは、
お
が、蒼羅は
彼岸花といえば、墓場の周りに咲く気味の悪い花、というのが蒼羅の認識だった。
あまり良い印象は持っていないし、他の人間に聞いても十中八九、同じ答えを返すだろう。
—これを誰かに送ったとて、喜ばれるものか?
蒼羅の反応からその心中を察したのか、男は薄く笑いながら言葉を続ける。
「まぁ、あんまり良い印象はないかもな。だけどこの花、見た目とは裏腹な花言葉があってね……」
「……花言葉?」
蒼羅は
生憎、そういった
「そうさ。『情熱』『独立』『再会』『あきらめ』『転生』『悲しい思い出』……あとは、『想うはあなた一人』『また会う日を楽しみに』なんてのもあるのさ」
「…………はぁ」
「お兄さんにも
「
「どうだいお兄さん。今なら少しまけとくよ」
どのみち、なにかひとつは買わないと外に出してくれなさそうだし、商品ではなく妙な恨みを買って面倒事に巻き込まれるのも
致し方なく軍服を売り払って得た金はある。あとで買い戻すつもりだったが、経費を使って新調しよう。
「分かった分かった、買うよ。ただしそれひとつきりだ」
蒼羅は老爺の手に金子を叩きつけ、髪飾りをひったくって踵を返す。
「へへぇ、毎度ありぃ」
欲にまみれた
・・・・・・
「…………はぁ」
朱羽は
それは自身が置かれた状況にではなく、他でもない自分自身に対してのものだ。
―嫌なやつだな、あたし。
あの女性の話を聞いて、朱羽は先ほど遊女たちを
彼女たちは望んでここに来たわけではないし、
望んで己を商売道具としているわけでもない。
表の世界から打ち捨てられ、それでも光を求めて必死に
自分のやったことは、
自己嫌悪に
遊女たちが我先にと媚びを売り込む先、立っているのはくたびれた
その姿には見覚えがあった。脳裏で記憶が巻き戻されていく。
巨大な赤鳥居を越えた後、すれ違った遊女の一団。その中心にいた
―あの男、そんなに魅力的?
朱羽は思わず顔をしかめた。正直言うとあまり好みではない。
守備範囲の外、
だが周りの遊女たちの黄色い歓声は止まない。不思議に思ってまじまじと見つめていると、先ほどの女性が耳打ちしてくる。
「あれが
なるほどね、と
どんな聖人君子かと思えば、大酒飲みで火遊び上手のろくでなし。
勝手に期待したのは朱羽の方で、燎馬という男から見れば
冷めた目で見ていると、遊女達を
―その瞬間、頭にずきりと
「ッ……?」
小さく押し殺した苦鳴を上げるも、次の瞬間には疼痛は消えていた。
まさしく通り過ぎるような一瞬の痛み。不思議に思っていると、燎馬が格子の中へ声を掛けてくる。
「奥のお前。ちょっと顔を見せてくれないか?」
—その瞬間、周囲が水を打ったように静まり返った。
見れば、今まで
周囲の視線が、無数の針のように突き刺さるのを肌で感じる。そこにはわずかに敵意のようなものも混じっていた。
「―あたし?」
「そうそう。ちょっとこっち来てみ?」
自分を指差し困惑する朱羽に、燎馬は
―まぁ、どうせ見るだけだろう。
―普段は見ない新顔が気になっただけで、まさか買いはしないはず。
朱羽は小さく眉を
すると燎馬は格子に腕を突っ込んで朱羽の
その
—やばっ。
とっさに愛想笑いを浮かべようとして一瞬、思いとどまる。
一秒にも満たない
もちろんわざとだ。
なんなら燎馬の顔に
普通なら、ここは猫を
だがこの男に買われてしまうと、蒼羅との合流が難しくなる。
燎馬という男も、愛想の悪い遊女を気に入るほど物好きじゃないだろう。すぐに他の女に目移りするはずだ。
あまりにも
その内心のわずかな焦りと裏腹に、燎馬は特に気分を害した様子もなく、手にした
かと思うと、ふと立ち上がり、格子の前にいた下男へ向き直る。
そして彼の次の言葉に、朱羽は耳を疑った。
「―決めた。今日はこの女を買う」
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