火事と喧嘩④
『
日が落ち、
そこに
そんな人混みの中。
ひとりだけ、切迫した表情で辺りを見回す男がいた。
安物の麻の着物を着た、丸眼鏡の商人―に
—いない、いない。いない。
どこにもいない。
朱羽は遊女に扮して先に潜入していた。
そしてこの場に並べられる彼女を蒼羅が買い、二人で『
「最悪だ……」
—誰かが
その可能性を考えていない訳ではなかった。
彼女の顔立ちは綺麗だ。ここにいるおよそ同年代の遊女たちと比べても、やはり頭一つ抜きん出ている。
世が世なら、
路地裏の
髪飾りを買わされる時間さえなければ、間に合っていたかもしれない。
これからどうする。どうすれば―
「なんだい旦那、冷やかしかい。うちで遊ばないなら帰んな」
蒼羅は下男の方を向き、困ったように苦笑した。
「いやぁ、目当ての
「目当ての? ……へぇ、そりゃどんな」
蒼羅が客と分かると、下男は表情を一転。
「今日入った娘を知らないか。こう、猫みたいに吊った目の―」
蒼羅は自分の目尻を引っ張って、朱羽の猫目を再現してみる。
下男は、ぽん、と手を打って表情を明るくした。
「あぁ、あの
ぷくく、と含み笑いを漏らす下男。文句を言おうとして、蒼羅は思い留まる。
高嶺の花だというのは分かりきっているし、この
「お
「さっき買われていったよ、
やっぱりか―
蒼羅は
「燎馬さん?」
「この『艶街』を仕切ってる若旦那さ。女物の着物を羽織った大酒呑みだよ」
それを聞いて、蒼羅は通りを行く中ですれ違った遊女の一団—
その中心にいた男を思い出した。
「しかし、あの人が遊女をひとりだけ買うなんて、珍しいこともあったもんだ」
「……そんなに珍しいか?」
遊女を十人も二十人も買って囲わせる方が、よっぽど珍しいような―そう思って聞き返すと、下男は
「珍しいとも。あの人の隣や後ろによくいるんだよ、人形みてぇに無口で不気味な女が。いつもはあれとべったりだ。たまに遊女を買うときもあるが……そんときゃ
下男は『綺艶城』の頂上を見遣る。
「あの新入り、ずいぶん気に入られたね。今ごろ燎馬さんの部屋にいるだろうさ。いやぁ残念だったねぇ旦那。気晴らしに他の娘はどうだい?」
下男の言葉に、遊女のひとりが格子に
ふーむ、と蒼羅は顎に手を当て考え込んだ。
このまま甘言に乗って、遊びのひとつやふたつ経験してみたいものだが、あいにく時間と持ち合わせが―
いや、待てよ。
蒼羅はなにかを閃いたように顔を上げた。
・・・・・・
—最悪。
頭を抱えたい気分だし、実際に抱えようともしていた。
が、
朱羽は嘆きたい気持ちをぐっとこらえて愛想笑いを浮かべながら、燎馬の後ろを付いて歩いていた。
朱塗りの柱と金箔の
燎馬の方が内部に詳しいのもあってか、先導する彼に着いていけば、『綺艶城』の最上階―彼の居室まで、難なくたどり着くことができた。
金箔の貼られた壁は
朱と金の二色に占有された部屋を、天井から吊るされた
最奥にあるのは丸い
―
「さてと、それじゃここらで腰を落ち着けて、ゆっくり話をしようか」
そう言って、燎馬は
爪先が向いた方向にあるのは、
返答の代わりに
―
燎馬の『おぉっと』という声が風に乗る頃には、その長身は
朱羽は馬乗りになりながら、懐から取り出した小刀を彼の喉元に突きつけた。腕を少し動かせば
本職の暗殺者なら、既に喉笛を掻き切っていただろう。
「……おいおい、ずいぶん積極的だなぁ。おじさん、そういうの嫌いじゃないぞ」
しかし、命の危機がすぐそこまで迫っているというのに、燎馬はへらへらと笑っていた。その口からは冗談まで飛び出す始末だ。
「黙って。あたしの質問にだけ答えて」
朱羽は刃を燎馬の首筋に押し当て、冷たい声音で
雰囲気を一変させた目の前の遊女に、燎馬は大仰に驚いたような顔をした。
「
「さぁ、知らないね、なんのことやら―」
朱羽の問いにも、燎馬は
「とぼけないで」
小刀を握る手に力を込める。刃が燎馬の肌に食い込み、わずかに血を
「……分かった分かった。知ってること全部、包み隠さず話しますよ」
痛みに眉をひそめた燎馬は、意外にもあっさりと折れた。
観念するように息を吐いたあと、
その奥に灯火が見えた。
「ッ!?」
息を飲んだ朱羽が反射的にのけぞった瞬間、燎馬の口から、豪ッ! と火柱が
鼻先で燃え盛る炎に肌と髪を
のそりと立ち上がる燎馬を見つめたまま、朱羽は
「……なに、いまの」
人が口から火を噴くなど、聞いたこともない。
「なにって、顔から火が出たのさ。あんたみたいな別嬪さんに間近で見つめられたら、誰だってそうなる」
—顔じゃなくて口からでしょ。
思わず出そうになった野暮な突っ込みを飲み下して、朱羽は冗談を言ってのける燎馬を睨み付けた。
燎馬は
「やっぱりお前か、幕府が
「……バレてたってわけね」
薄ら笑いを浮かべる燎馬に、朱羽は苦々しい顔で舌を打つ。
「ある情報筋から、幕府の連中が裏賭場を
燎馬は朱羽から視線を外し、硝子窓の向こう—城下の街並みを見ながら『それにな』と言葉を続ける。
「今日は女を仕入れる予定なんて無かったのさ。けど城下は、どこぞの商人が連れてきたっていう別嬪の
大仰に肩をすくめる燎馬。朱羽を見る目には
「―だからお前を買ったのさ。大方、仲間に買ってもらって合流を考えてたんだろうがね」
してやったりと意地悪く笑う燎馬に、朱羽は『それがどうした』と言わんばかりの不敵な笑みを返す。
「それでこっちの作戦を
その言葉に燎馬は目を丸くした後、どこか懐かしむように小さく笑った。
「言うねぇ……大した自信だ。お前は変わらないな」
その物言いに朱羽は眉を顰めた。
まるでこちらを知っているような口振り。それも今回が初めてではない。
『艶街』に潜入する前、
喉の奥に魚の小骨が引っかかるような、
朱羽はそれを無理やり飲み下す。
今は関係ない話だ。この男を
「で、まだ質問に答えてもらってないんだけど?」
朱羽が
「裏賭場のことか? 悪いが、刀を押し付けて脅迫するような奴には言えないねぇ」
「なら吐かせるまでよ」
下段からの斬り上げ、脇腹を峰で打ち据える一閃。床を蹴ってわずかに後退した燎馬の胸板を切っ先が
続く攻撃に後退と回避の一手を打ち続けながら、燎馬はやれやれと首を横に振る。
「やめとけ、俺は女は殴らない主義なんだ」
「だったら抵抗しないで、さっさとお縄に掛かってよねッ」
壁際まで追い詰められた燎馬を見て、朱羽はすかさず大上段からの振り下ろし。
対し、燎馬は右脇に逃れる。追い討ちをかけようと振り向いた朱羽の脇腹に、燎馬が放った
「ぐ……ッ!?」
吹き飛んだ朱羽の身体は
「—げほッ、はっ……ちょっと、女は殴らないんじゃなかったの?」
「確かに殴らないとは言ったが……蹴らないとは言ってないさ」
立ち上がりながら非難がましく睨む朱羽に、燎馬はやれやれと肩をすくめた。
よくもまぁ、いけしゃあしゃあと、悪びれもせず言うものだ。
内心呆れていると、燎馬はなにを思ったか表情を明るくした。
「気が変わった。やっぱり教えてやろう」
「は?」
「裏賭場は俺の管轄外でねー、責任者も
どういう風の吹き回しか、燎馬は今まではぐらかしていた裏賭場についてぺらぺらと喋り始めた。
が、肝心の内容は『知らない』の一点張り。
これでは
朱羽は
「それで納得すると思う?」
「知ってることは話したさ」
「……まだ隠してるんじゃないの?」
「いいや、俺が持ってる情報は全部くれてやった」
へらへらと笑う顔が
再び距離を詰めようとして、朱羽の耳は襖の向こうから聞こえてくる物音を
次の瞬間には、ばん! と勢いよく襖が開かれ、
「燎馬様! さっきの物音は―」
先頭の男は燎馬へ問いながら、刃物を持った朱羽の姿を見て小さく息を飲む。
「
燎馬は先ほどとは打って変わって、冷徹な声で男衆に短く命じる。
まずいな―命令に応じ動き出す男衆を見ながら、朱羽は小さく顔をしかめた。
普段なら、あの人数を相手取るのはそう難しいことではない。
だが今はただでさえ動き辛い遊女姿に、得物は攻撃範囲の狭い小刀。さっきの蹴りで折れたのか、右の
それに、燎馬が裏賭場の情報をあれ以上持っているかも怪しい。
苦労して全員打ち倒したとして、収穫が無ければ骨折り損もいいところだ。
敗れた後どうなるか、想像も付かない。単に首を落とされるだけではきっと済まないだろう。
戦略的撤退と行きたいところだが、出入り口はひとつ、燎馬と男衆を挟んで向こうにある襖のみ。予期せずして退路を断たれた形になる。
他に逃げ道があるとすれば―朱羽は首を巡らせ、背後の巨大な硝子窓と、そこから透けて見える城下の景色をちらりと見やった。
算段の間にも男衆はじわじわと距離を詰めてくる。時間がない。
朱羽は意を決するように小さく
何事かと足を止める男衆。
「おりゃ!」
その
床を勢い良くごろんごろん転がった酒樽は、立ち止まっていた男衆と正面衝突。
先頭の男は足を取られて倒れ、後続も弾き飛ばされるようにして派手にすっころんだ。
朱羽はその間抜けな様子に小さく笑いながら、小刀を背後の硝子窓へ
切っ先が突き立った瞬間、朱羽は跳躍ざまに
重力が朱羽を捕らえ、その身体は地上へ落下していく。
割れた硝子窓から、驚いたような顔を出してくる燎馬と男衆。
「べーっ」
朱羽はせめてもの抵抗として、馬鹿にするように目の下を引っぱり舌を出した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます