雷神と狂獣⑥
朱羽は暗闇の中に居た。
周囲には
そこに立っているようでいて、けれど浮いているような。
全身から血の気が引いていく様で、それでいて逆流していくような。
夢か
しばらくすると、数歩先にぼうっと光が灯った。幽鬼のように
なんの冗談か、疫病神のような不幸面だったが……その姿を見て
目が合う。我に返る。
すると彼はどこか寂しそうに小さく笑った後、
――ねぇ、どこ行くの?
問い掛ける声に音が乗らない。
二人の間には不可視の壁でもあるようで、発した言葉は届かない。
遠ざかっていく。色が薄らいでいく。闇に溶け消えていく。
――ねぇ、待ってってば。
駆け出すと、周囲の黒が
闇より黒い腕が無数に伸び、身体中の至る所を掴み、
引きずり込まれていく。飲み込まれていく。覆い隠されていく。
――嫌だ、やめて。
――連れて行かないで。
――置いていかないで。
・・・・・・
「――っ」
ついさっきまで激しい運動をしていたかのように呼吸が荒い。全身が嫌な汗でびっしょりで、貼り付いた着物が不愉快だ。
身震いするほどの
得体の知れない
意識は
それでも気力だけを杖に立ち上がり、壁に預けた身体を引きずりながら進む。
そうしてようやっと薄暗い廊下に出た、その瞬間。
閃光が窓から
「…………ぁ」
朱羽は
幾度となく遠雷の響く曇天。
異様な静寂に包まれた薄暗い廊下。
閃く雷光が、そこに
照らし出されるのは、首を
「とうさま、かあさま、いや、いやぁ……っ!」
逃げ込んだ部屋の中、無惨な最期を迎えたお父様とお母様が転がっている。その前には二人を
彼との間を
と、こちらに気付いたように“雷神”が振り返り、手を伸ばし襲い掛かってくる――
落雷を引き金にして己の脳裏に蘇った光景。悲鳴を上げた朱羽は目を強く
「あにさま、あにさまたすけて……っ」
・・・・・・
瞬間的に大気が緊張する。
まるで
獅子の
四肢の末端にまで一層の熱が
降り注ぐ雨粒は圧倒的熱量に触れて
分厚い黒雲が光を
鮮烈に蒼の色彩を放つ
永い眠りからようやく覚醒した、
「くはッ……くはは、くははははははははははッ!!
凶暴な人喰い虎が
異常興奮で散大した
「さァ、第二回戦だ……
「――お前は、なんで戦うんだ?」
問われるばかりで、聞けていなかった。
虎堂琥轍が、なぜ戦いに執着するのか。
なぜ、戦いの中でしか喜びを見出せないのか。
なぜ、そんな生き方しかできないのか。
「人を殴ってなにが愉しい。人を傷つけてどうして笑っていられる」
「はッ、野暮が。面倒なこと喋らせンじゃねェよ」
蒼羅が発した静かな問いに、琥轍は露骨な嫌悪の表情を浮かべる。
が、嫌そうな顔こそすれど――よほど機嫌が良いのだろう――琥轍は心底から愉快そうに語り始めた。
「俺は殺し合いってのが大好きなんだよ。勝てば生き残る、負ければ死ぬ。単純明快、分かりやすいだろ?」
「俺が望むのは
「見てェのは、戦いの中で流す熱い血潮だ。聴きてェのは、獣のような呼吸だ。死にたくねぇ死にたくねぇと
「そして俺が感じてェのはなァ、
「なぁ、そんな絶頂の中で死ねたら……一体どれだけ気分が良いんだろうなァ」
裂けんばかりに口の端を吊り上げる琥轍。
最後の言葉から、煮え滾る興奮の温度は急速に失われ――
全ての言葉を聞き終えた蒼羅は
「……哀しいな、お前」
虎堂琥轍。
戦うことでしか、人と分かり合えない。
戦うことでしか、存在が証明できない。
戦うことでしか、生きることができない。
生まれるべき時代に生まれ損ねて、死ぬべき瞬間に死に損なった男。
死んでも死んでも死に切れず、
「どうせお前みたいな偽善者にゃ、理解できねェだろうさ。……同情する暇があるなら戦えよ、俺と」
鼻で笑う琥轍の挑発に
「俺は、この力が好きじゃなかった」
出力を少しでも
誰かを活かすも殺すも簡単な——人の身には過ぎたこの力が。
「お前の言った通りだ。
脳裏に浮かぶのは、『あの日』の惨劇。夕空まで紅く染まった
そして、一族郎党すべて皆殺しにした―—『真紅の剣士』。
あの地獄からひとり生き延びた蒼羅は、自らが生まれ持った力を恥じ、憎み、そして嫌悪した。
こんな『異能』さえなければ、父も母も、一族の皆も……死ぬことは無かったはずだ。
「だけど、父さんや母さんから受け継いだものは、これくらいしかないんだ」
父に似た顔立ちと、母譲りの性格。そしてこの忌まわしい雷――
堕神蒼羅という人間を構成するものはたったそれだけしかない。そんな自分が大嫌いだった。
けれど、切り捨てることも出来なかった。
——今なら分かるよ、父さん。
俺がこんな力を扱える理由。そして、その使い道が。
伸ばせぬ腕を伸ばすため。
届かぬ場所へ届かせるため。
俺が守りたいものを、守るため。
俺が救いたいものを、救うため。
「俺は、俺の
音立てて注いでいた
頭上に集う黒雲は薄ぼけ、
心のうちに蟠っていた劣等感の暗雲が、覚悟を鈍らせていた霧雨が晴れていく。
「俺の前では誰にも殺させない。俺の手が届く範囲は、誰ひとり死なせない……!!」
やがて光明が差し込む。
今度は針の穴のような小さなものではなく……
晴れ間から覗く紅い黄昏を背に。右拳を握り締めて真っ直ぐに前を、琥轍を——己の敵を睨み据える。
「虎堂琥轍――俺が救ってやる」
確かな拒絶の言葉。そこに込められた覚悟を聞いた琥轍は
やがて耐え切れなくなったとでも言わんばかりに天を
「くはははははははははははははははははははッ!! 傑作、こいつぁ傑作だ!!」
その声音に
その
その瞳の奥で燃え盛るのは、自らと対等に渡り合う強者への尊敬。
「護る? 殺させない? 死なせない? ——冗談だろ、まだそんな生温い建前に
戦いに酔い、戦いに狂って——
戦いを渇望し、戦いに枯渇して——
戦いを愉しみ、戦いを悦楽とする——
「堕神蒼羅……俺を殺してみせろ」
蒼羅は、両の拳を握り込んだ。
その手にようやく掴んだものを、もう二度と取り零すまいとするように。
琥轍は、両の腕を水平に掲げた。
これからその身に降り注ぐ痛みを、興奮を、全身で享受しようとするように。
二者は同時に地を踏み締めて駆け、有らん限りに吼える。
「くははッ、ド派手に! 激しく! 命尽きるまで暴れようぜェ!!」
「だから、誰ひとり死なせねぇって、言ってんだろうがッ!!」
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