雷神と狂獣⑥


 朱羽は暗闇の中に居た。

 周囲にはあかりも何も無い。自分の身体さえも見えない、黒一色の世界。


 そこに立っているようでいて、けれど浮いているような。

 全身から血の気が引いていく様で、それでいて逆流していくような。

 夢かうつつかも、寝ているのか起きているのかも分からない。不可思議な感覚が、闇色のとばりとなって全身を包んでいる。


 しばらくすると、数歩先にぼうっと光が灯った。幽鬼のようにおぼろくらんだそれは、人の姿をしている。

 なんの冗談か、疫病神のようなだったが……その姿を見て安堵あんどしている自分に気付く。

 

 目が合う。我に返る。

 腑抜ふぬけた感情が顔に出ていたかもしれない……途端に恥ずかしくなって顔を背ける。

 すると彼はどこか寂しそうに小さく笑った後、きびすを返して去っていってしまう。


 ――ねぇ、どこ行くの?


 問い掛ける声に音が乗らない。

 二人の間には不可視の壁でもあるようで、発した言葉は届かない。

 遠ざかっていく。色が薄らいでいく。闇に溶け消えていく。


 ――ねぇ、待ってってば。


 駆け出すと、周囲の黒が泥沼どろぬまのような粘度を持った。

 闇より黒い腕が無数に伸び、身体中の至る所を掴み、雁字がんじがらめにされる。

 引きずり込まれていく。飲み込まれていく。覆い隠されていく。


 ――嫌だ、やめて。

 ――連れて行かないで。 


 懇願こんがんする度に、抵抗する度に、身体と心はひたすらの闇に浸かっていく。


 ――置いていかないで。


・・・・・・


「――っ」


 大音声だいおんじょうと地鳴りに揺さぶられ、朱羽の意識が覚醒する。

 ついさっきまで激しい運動をしていたかのように呼吸が荒い。全身が嫌な汗でびっしょりで、貼り付いた着物が不愉快だ。


 身震いするほどの悪寒おかんが走る肌に反して、身体の芯はいやに熱かった。

 得体の知れない焦燥しょうそうに肉の内を焦がされるまま、激痛にわめく身体を無視して起き上がる。


 意識は朦朧もうろうとし、視界はブレる。一歩踏み出すこともままならない。

 それでも気力だけを杖に立ち上がり、壁に預けた身体を引きずりながら進む。

 そうしてようやっと薄暗い廊下に出た、その瞬間。


 が窓からのぞく雨模様を白く染め上げ、が鼓膜を震わせた。


「…………ぁ」


 朱羽はおびえるように目を見開き、震える声を漏らした。


 幾度となく遠雷の響く曇天。

 異様な静寂に包まれた薄暗い廊下。

 閃く雷光が、そこにわだかまる闇を一瞬だけ晴らす。

 照らし出されるのは、首をられて死んだ者たちの凄絶な表情。

 苦悶くもんに満ちた今際いまわの顔。見開かれたその双眸そうぼうは、見た者全てを呪い殺さんとするかのよう。


「とうさま、かあさま、いや、いやぁ……っ!」 


 逃げ込んだ部屋の中、無惨な最期を迎えたお父様とお母様が転がっている。その前には二人をかばうように立つ、兄様あにさまの姿。

 彼との間をへだてて、が背を向けている。

 と、こちらに気付いたように“雷神”が振り返り、手を伸ばし襲い掛かってくる――


 落雷を引き金にして己の脳裏に蘇った光景。悲鳴を上げた朱羽は目を強くつむり、耳を塞いでうずくまる。 


「あにさま、あにさまたすけて……っ」


・・・・・・



 蒼羅そら瞑目めいもくしたまま小さく息を吐き——開眼。


 瞬間的に大気が緊張する。

 まるでかせを外されたかのように、身に纏う雷電が一層激しく強さときらめきを増す。

 獅子のたてがみめいて逆立つ怒髪が天をく。

 四肢の末端にまで一層の熱がこもる。全身の神経に電流が通っていく感覚に、体表を這い跳ねる蒼雷はさらに色を増して白熱する。

 降り注ぐ雨粒は圧倒的熱量に触れてことごとく蒸発し、雲霞うんかのごとく周囲にただよう。


 分厚い黒雲が光をさえぎり、目に映る世界がよどんだ無彩に染まる中。

 鮮烈に蒼の色彩を放つ雷霆らいてい。それをおのが身に纏う威容――まさしく雷神。


 永い眠りからようやく覚醒した、堕神おちがみ蒼羅そら


「くはッ……くはは、くははははははははははッ!! 嗚呼ああ、良い、い、いぜお前。そうこなくっちゃァな!!」


 凶暴な人喰い虎がえる。

 異常興奮で散大した瞳孔どうこうに蒼き神威かむいを映し、琥轍こてつびた哄笑こうしょうを狂喜にきしませた。


「さァ、第二回戦だ……たのしませてくれよ」

「――お前は、なんで戦うんだ?」


 問われるばかりで、聞けていなかった。

 虎堂琥轍が、なぜ戦いに執着するのか。

 なぜ、戦いの中でしか喜びを見出せないのか。

 なぜ、しかできないのか。


「人を殴ってなにが愉しい。人を傷つけてどうして笑っていられる」

「はッ、野暮が。面倒なこと喋らせンじゃねェよ」


 蒼羅が発した静かな問いに、琥轍は露骨な嫌悪の表情を浮かべる。

 が、嫌そうな顔こそすれど――よほど機嫌が良いのだろう――琥轍は心底から愉快そうに語り始めた。


「俺はってのが大好きなんだよ。勝てば生き残る、負ければ死ぬ。単純明快、分かりやすいだろ?」


「俺が望むのは一対一サシの決闘。数に物を言わせて押し潰す合戦いくさじゃねぇ、一対多で袋叩きにする弱い者いじめなんざァもっての外だ」


「見てェのは、戦いの中で流す熱い血潮だ。聴きてェのは、獣のような呼吸だ。死にたくねぇ死にたくねぇと早鐘はやがねみたいに五月蝿うるさく打ち続ける、俺とおめぇの鼓動だ」


「そして俺が感じてェのはなァ、闘争心こころだよ。このもろい身体をぶち壊しちまうくらいに、どうでもいい理屈なんざき尽くすくらいに、暴走して歯止めがかなくなっちまうくらいに――沸騰して煮えたぎってる魂だ!!」


「なぁ、そんな絶頂の中で死ねたら……一体どれだけ気分が良いんだろうなァ」


 裂けんばかりに口の端を吊り上げる琥轍。 

 最後の言葉から、煮え滾る興奮の温度は急速に失われ――羨望せんぼう諦念ていねんにじみ出す。

 全ての言葉を聞き終えた蒼羅は咀嚼そしゃくするように頷き、静かに目を伏せる。


「……哀しいな、お前」


 虎堂琥轍。

 戦うことでしか、人と分かり合えない。

 戦うことでしか、存在が証明できない。

 戦うことでしか、生きることができない。


 生まれるべき時代に生まれ損ねて、死ぬべき瞬間に死に損なった男。

 死んでも死んでも死に切れず、修羅道しゅらどう彷徨さまよい続ける——戦乱の時代からひとり取り遺された哀しき怪物。


「どうせお前みたいな偽善者にゃ、理解できねェだろうさ。……同情する暇があるなら戦えよ、俺と」


 鼻で笑う琥轍の挑発にかぶりを振った蒼羅は、自らの右腕に視線を落として淡々と口を開く。


「俺は、この力が好きじゃなかった」


 出力を少しでもあやまれば、触れただけで容易たやすく命を奪ってしまうこの力が。

 誰かを活かすも殺すも簡単な——人の身には過ぎたこの力が。


「お前の言った通りだ。堕神一族おれたちはな、五年前にもう滅んでる。きっと、このちからの所為で」


 脳裏に浮かぶのは、『あの日』の惨劇。夕空まで紅く染まった殺戮さつりくの狂宴。

 そして、一族郎党すべて皆殺しにした―—『真紅の剣士』。

 あの地獄からひとり生き延びた蒼羅は、自らが生まれ持った力を恥じ、憎み、そして嫌悪した。

 こんな『異能』さえなければ、父も母も、一族の皆も……死ぬことは無かったはずだ。


「だけど、父さんや母さんから受け継いだものは、これくらいしかないんだ」


 父に似た顔立ちと、母譲りの性格。そしてこの忌まわしい雷――

 堕神蒼羅という人間を構成するものはたったそれだけしかない。そんな自分が大嫌いだった。

 けれど、切り捨てることも出来なかった。


 ——今なら分かるよ、父さん。

 俺がこんな力を扱える理由。そして、その使い道が。


 伸ばせぬ腕を伸ばすため。

 届かぬ場所へ届かせるため。

 俺が守りたいものを、守るため。

 俺が救いたいものを、救うため。


「俺は、俺のちからで人を護る」


 音立てて注いでいた驟雨しゅううが、その勢いを段々と弱めていく。

 頭上に集う黒雲は薄ぼけ、黄昏たそがれの色をその輪郭りんかくに滲ませ始める。

 心のうちに蟠っていた劣等感の暗雲が、覚悟を鈍らせていた霧雨が晴れていく。


「俺の前では誰にも殺させない。俺の手が届く範囲は、……!!」


 やがて光明が差し込む。

 今度は針の穴のような小さなものではなく……曇天どんてんを裂いて降り注ぐ、確かなしるべとなって。

 晴れ間から覗く紅い黄昏を背に。右拳を握り締めて真っ直ぐに前を、琥轍を——己の敵を睨み据える。


「虎堂琥轍――


 確かな拒絶の言葉。そこに込められた覚悟を聞いた琥轍はうつむき、肩を震わせる。

 やがて耐え切れなくなったとでも言わんばかりに天をあおぎ、愉悦ゆえつに吊り上がった口許くちもとから哄笑を轟かせた。


「くはははははははははははははははははははッ!! 傑作、こいつぁ傑作だ!!」


 その声音に侮蔑ぶべつ嘲弄ちょうろうは無い。

 そのかおにあるのは、狂いに狂った酔狂すいきょうな笑み。

 その瞳の奥で燃え盛るのは、自らと対等に渡り合う強者への尊敬。


「護る? 殺させない? 死なせない? ——冗談だろ、まだそんな生温い建前にすがってやがるのか。これ以上野暮なこと言わすな」


 戦いに酔い、戦いに狂って——

 戦いを渇望し、戦いに枯渇して——

 戦いを愉しみ、戦いを悦楽とする——

 えた狂獣けだもの表情えみ


「堕神蒼羅……


 蒼羅は、両の拳を握り込んだ。

 その手にようやく掴んだものを、もう二度と取り零すまいとするように。

 琥轍は、両の腕を水平に掲げた。

 これからその身に降り注ぐ痛みを、興奮を、全身で享受しようとするように。


 二者は同時に地を踏み締めて駆け、有らん限りに吼える。


「くははッ、ド派手に! 激しく! 命尽きるまで暴れようぜェ!!」

「だから、誰ひとり死なせねぇって、言ってんだろうがッ!!」

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