雷神と狂獣⑤

「――蒼羅そら


 聞き慣れた、久しぶりに聞いた低い声。

 夕焼けの橙に塗り潰された畦道あぜみち。左右に広がる黄金色の稲穂の海を割る一本線の上、立ち尽くす幼い蒼羅に影が差す。


 振り返れば、大柄な男がすぐ後ろにいた。逆光で黒く塗り潰され、たくましい身体の輪郭りんかくだけが見える。


「もう日が落ちてきた、帰ろう」

「父さん。僕は、でてあげようとしただけなんだ。なのに……」


 消沈した声を上げて再びうつむく蒼羅。その視線の先には、地に伏し末期まつごのように全身を痙攣けいれんさせる野良猫がいた。


「お前はまだ、力をぎょし切れてないからな。父さんも、昔は同じことやって落ち込んだもんだ……でも心配いらないよ」


 なだめるように肩に手を置いたあと、父さんは野良猫のそばにしゃがみ込み、そっと触れた。

 華奢きゃしゃ肢体したいを淡い蒼光が包んだかと思うと、野良猫はびくりと震えて目を覚ます。

 全身の毛を逆立て、威嚇いかくうなりを上げながら走り去っていくのを見送った後、蒼羅は自分の右手を見つめていた。


「……こんなもの、無ければいいのに」


 ――普通が良かった。

 ――普通で良かった。

 ――誰も、欲しいなんて言ってないのに。


「蒼羅は、父さんと母さんの子供じゃない方が良かったか?」


 ひとりごちる蒼羅の前にしゃがみ込み、目線を合わせて問い掛けてくる父さん。

 落ちた前髪の影で塗り潰されて目許は見えない。それでも物悲しげな声音こわねになんだか急にばつが悪くなって、目を逸らしもごもごと口を動かす。


「そうじゃない……けど」

「なら良かった。……さぁ行こう、母さんがご馳走ちそうつくって待ってるぞ」


 ひとつ破顔して立ち上がった父さんに、手を引かれるまま歩いていく。

 橙に染まる畦道を、地平に沈む夕陽から伸びる一本道を、二人は並んで歩いていく。


「ねぇ父さん」

「なんだ?」

「僕たちは神様でもないのに、なんでこんな力があるの?」

「そうだなぁ。確かに『堕神一族おれたち』は神様じゃない。それでも神に等しい力を扱えるのは……と思ってる」

「……意味って、どんな?」

「実は父さんも分からないから、頑張って探してるところなんだ。……母さんには内緒な」

「はは、なにそれ」


 目の前で、大の大人が困り果てている――その様子がなんだか可笑おかしくて、返す言葉はくすぐったそうに震えた。

 父さんも苦笑するように口元を歪めた後、空を見上げてひとりごちた。


「たとえば、そうだな……他の人には成せないことを成すため、とかな」

「人の身のままでは倒せぬものを、倒すために」

「人の身のままでは守れぬものを、守るために」

「人の身のままでは救えぬものを、救うために」




『さてと、『八咫烏ヤタガラス』を殺しに行くか。……瀕死の重傷なら、俺が楽にしてやるよ』




 父さんのものではない、他の誰かの言葉が聞こえた。


 幼い蒼羅は、はたと後ろを振り返っていた。

 見えたのは白一色の世界。歩いて来た畦道も、左右に広がる黄金色の稲穂の群れも、なにもかもが消し去られていた。


 まるで、いま立っている場所を境界線とするように。


 安心している場合か。俺が今まで戦っていた理由はなんだ?

 ――琥轍に朱羽あけはを殺させないためだ。

 こんな場所で寝てる場合か。俺の命は何のためにある?

 ――誰かの命を守るためだ。

 ここで俺が倒れれば、朱羽は殺される。今の状態では抵抗もろくにできないだろう。胸中を満たしていた安堵あんどの情が、ゆっくりと結氷していく。


『守るものは、自分の両の掌でつかめるものだけにしておけ。じゃなきゃお前は、なにも守れずに死んでいくことになる』


 ――白紙の世界に言葉が浮かんで、薄墨うすずみのように溶け消える。


『戦う意志がないなら、一丁前に武装してんじゃねぇよ。なにかを賭けて戦う覚悟も無いなら、この場に立つんじゃねぇ。―邪魔だから消えろ』


 ――誰の言葉かさえも判然としないそれらは、きっとなのだろう。


『お前が為すべきことはなんだ。お前が果たしたいものはなんだ』


 ――限界を迎えた身体が放つ危険信号が、なぜか過去の声となって再生される。


『ねぇ』

『あんたはの?』

『それとも、だけなの?』


 真っ白な脳裏にひとつだけ、はっきりと浮かび上がる情景があった。

 光と影の色彩を乗せた朱羽の双眸そうぼうと、蒼羅の内面を暴こうとする問い。


 ――違うよ。

 ――どちらかじゃなくて、そのだ。

 ――俺は誰かを助けたい。誰かのために生きたい。


 ――そして誰かのために、んだ。


『――蒼羅?』

 

 不思議そうに呼びかける声に振り向かず、夕陽に、父さんの影に背を向けて走っていく。白の世界へ飛び込んでいく。

 全力で。目蓋まぶたを強くつむって、逃げるように。あるいは見えざる手となって後ろ髪を引く迷いを、振り切ろうとするように。


 ――ごめんね、父さん、母さん。

 ――俺はまだ、二人のところには


 どれほど走ったのだろう。どこに辿たどり着いたのだろう。

 鼻を突く嫌な臭いに目を開ける。目に映る世界は赤々と染まっていた。それはかつて見た地獄。


 おびただしい数の黒い鴉が舞う、明々あかあかと焼けただれた夕空。黒と橙で点描された空の下に広がる地獄絵図の中に、蒼羅そらは立っていた。


 赤黒く染まった大地には、いくつものしかばねが転がっていた。

 背を裂かれた者。

 首を飛ばされた者。

 四肢をもがれた者。

 いくつもの刀を剣山のように突き立てられた者。

 かばった赤子ごと突き殺された者。

 上半身と下半身がわかたれた者。

 下腹部から脳天までを串刺しにされた者。


 あらん限りの殺し方を持って、一方的に、ただ一方的に。

 たったひとりの人間によって、蹂躙じゅうりんされ虐殺ぎゃくさつされ鏖殺おうさつされたそれらは、全て墓標代わりに刀を突き立てられ、凄絶せいぜつな表情で絶命していた。

 そのいくつかには既に鴉が群がり、屍肉をついばんでいる。


 目の前に広がる光景は、広大な芒野原すすきのはらを、いびつで悪趣味な比喩で表したようだった。

 荒涼な風が吹きすさび、えた臭いを鼻に運んでくる。ここが芒野原であれば、穂が水面のごとく波打つのだろうが……動くものはなにもない。なにひとつない。


 全てが死んで、死にきって、死に絶えていた。


 その中で、たったひとり蒼羅は、死屍累々ししるいるい只中ただなかに立ち尽くす、もう一人の背中を睨み付けていた。

 両手に刀を提げたその人影。

 血のようにあかい長髪をなびかせ、返り血で着物を真っ赤に染め上げた『真紅しんく剣士けんし』が、なにかに気付いたように、ゆっくりとこちらを振り返る——


 蒼羅の行動原理に根ざすのは、記憶の底にこびりついた『あの日』の光景だ。

 あの地獄からたったひとり生還した蒼羅は、ひとりだけ生き残った罪悪感に押しつぶされそうになりながら生きてきた。


 他人を救えるなら、どれほど傷つこうが構わない。

 俺が血を流した分だけ誰かの安寧あんねいを守れるのなら、たとえ死んだって構わない。

 命と引き換えにしても、護りたいものがある。


 それが蒼羅の生きる理由で、戦う理由で――なのだから。

 だから、あの狂獣をここで止める。止めなければならない。


 ――俺が。

 ――俺の手で。

 ――!!


 手を伸ばした先に、降雷一閃。

 白くかすむ視界を切り裂いて、神鳴かみなりちる。


・・・・・・


「     」

「あァ……?」


 すぐ背後からの轟音と閃光に足を止める。不機嫌そうに喉を震わす琥轍こてつは、首を巡らせた先にあった光景に目を見開いた。


 天から降った一条の雷は、大地を穿孔せんこうするだけでは飽き足らず、その場に留まり四方八方へと根を伸ばす。

 怒り。憤り。憤激ふんげきを体現するようにうごめき続ける蒼光の中心で、


 瞳を閉じたまま。

 ただ強く二つの拳を握り締めて。

 ゆっくりと――堕神おちがみ蒼羅そらが立ち上がる。


 落雷が直撃したにもかかわらず、その身に異変は無かった。

 一体どういう理屈か、血と泥でまだらに汚れた襯衣シャツ洋袴ズボンは焼け落ちずに残り、肌に火傷やけどの類は見られない。


 ――


 いな、ひとつだけあった。


 静電気が弾けるような雑音が、断続的にそのから響く。その度、一筋、二筋と、蒼白い雷霆らいていが身体を這っていく。

 火花を散らしながら肌を跳ね回る蒼の支流は、次第に数を増やしていく。

 あたかも鎧のごとく、全身を覆っていく。


「……くは」


 束の間、呆けていた琥轍の口の端が吊り上がる。き出しになった真珠色の犬歯が鈍く光った。

 散大した己の瞳孔どうこうに映り込む神話じみた光景に、その相貌そうぼうは笑みで彩られた。

 それは獰猛で獰悪どうあくな―狂笑。


「くははッ!!『』……か。最ッ高だなァ!!」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る