共振と追跡③

 暗殺部隊『天照あまてらす』の人間たちと戦う度に、朱羽あけはの脳裏には体験した覚えのない過去の記憶―その断片が蘇っていた。

 しかしいま龍親との戦いで蘇った記憶は、それらと全く違う、どこか懐かしささえ感じる風景。


 畳敷きの床に、竹刀しないを持つ小さな手。

 目の前に立ち同じく竹刀を構える龍親。


 幼い頃、剣の稽古をつけてもらっていた記憶。

 他の誰のものでもない、確かに朱羽あたしが経験した過去の記憶だ。


 朱羽あけはの意識の向く先が、脳裏の光景から現実の風景へと切り替わる。

 それと同時に、睨み合っていた二人が動いた。


 地面を蹴りつけ、巻き立てた砂利じゃりを置き去りにして互いの間合いへ入り込む。

 両者の手がかすみ、握られた刀は銀の閃光となって幾重いくえにも軌跡を描く。

 朱羽と龍親の間で行き交う銀光は幾度もぶつかり合い、鋭く歪んだ音階の協奏曲を奏で続ける。

 二者の間に人ひとりを放り込めば、瞬く間に肉片に変わるであろう密度の剣戟けんげき

 常人には反応すらできない刹那せつなの世界の中で、朱羽は必死の形相ぎょうそうで剣線を描き続ける。

 しかし今その顔にあるのは焦りではなく、一心不乱に書物を読み進めるかのような極度の集中。


 朱羽の瞳の中では、脳裏にあるかつてのと、いま直視しているが、半透明になって重なり合っていた。

 視界の中で、過去と現在の龍親の動きが、寸分の狂いなくする。


 ―この動きは覚えてる。そしてどう対応すれば良いのかも分かる。


 なんの偶然か、記憶と現実の龍親の動きはズレることなく重なり続ける。

 必死に身体を駆動くどうさせながら、朱羽はまるで自分の意識が身体から離れていくような浮遊感を覚えていた。

 龍親と刃を交えるその光景を、どこかで俯瞰ふかんしている自分がいる。


 相手の剣線を読み、己もまた剣を振るう度に。

 鋼のかち合う高音が、鼓膜に反響する度に。

 次の一手を、過去の記憶から読み出す度に。


 意識と身体は乖離かいりしていく。

 自分の身体がような―

 自分自身がなにかに塗り替えられ、染め上げられていくような感覚が、四肢の末端から広がっていく。

 己が己でなくなるような感覚に一抹いちまつの不安を覚えつつも、しかし朱羽は小さく笑った。

 ―これでいい。


 意識と身体の乖離が進むほどに。

 指先から広がる変化に浸食しんしょくされるほどに。


 刀を振るうその動きは、洗練され、収斂しゅうれんされ、最適化されていく。

 目の前にいる敵を倒す―のために。

 龍親を倒せるなら、肉の内で起こるにこの身体を明け渡したって構わない。


 ―倒せるなら?


 なにをを。九条龍親はここで倒す。

 “私”がこの手で倒す。


 倒す。

 倒す。倒す。倒す。

 倒す。倒す。倒す。倒す。倒す――


 たった三音の短い言葉。

 短いが故に強烈な意志を乗せた言葉が、思考を次第に埋め尽くしていく。


 倒す。倒す。倒す。倒す。倒す。倒す。倒す。倒す。倒す。倒す。倒す。倒す。倒す。倒す。倒す。倒す。倒す。倒す。倒す。倒す。倒す。倒す。倒す。倒す。倒す。倒す。倒す。倒す。倒す。倒す。倒す。倒す。倒す――


 言葉が浮かぶ。思考に浮かぶ。

 水面みなもき出る泡のように単調に、乱雑に、その勢いを加速度的に増して。 

 呪詛じゅそじみたが思考に発せられるたび、そこに込められた意志が己の意識に溶け込んでいく。己の身体に刻み込まれていく。

 動きはより精密に、狡猾こうかつに、残忍に、変化していく。


 倒す倒す倒す倒す倒す倒す倒す倒す倒す倒す倒す倒す倒す倒す倒す倒す倒す倒す倒す倒す倒す倒す倒す倒す倒す倒すたおす倒す倒す倒す倒す倒す倒す倒す倒す倒す倒す倒す斃す斃す斃す斃す斃す斃す斃す斃す斃す倒す倒す倒す斃す斃す斃す斃す斃す斃す斃す斃す斃す斃す斃す斃す斃す斃す斃す斃す斃す斃す斃す斃す斃す斃す――


 言葉はやがて声となって、耳障みみざわりな雑音のように反響し始める。

 剣戟がかき鳴らす不協和音は遠ざかっていき、刃の領域にこの身をさらしている現実さえ薄ぼけ始めた頃―


 朱羽は不意に、心の臓が冷たく暗い闇に満たされていくような感覚を覚えた。

 それは拍動と共に放出された血に乗って全身を巡り、身体の隅々すみずみまで行き渡る。

 高ぶる身体の熱が冷えていく。冷たく冴えていく思考は、に最適な行動を取ろうとする。


 たおす。

 たおす。

 たおす。


 ――ころす。


 鋼のかち合う高音で、朱羽は

 鍔競つばぜい。握り込んだ柄がぎちりぎちりと軋む中、鏡面のような刃に映る自分の顔と目が合った。


 ―笑っていた。凄絶せいぜつに。


 殺戮さつりく暴虐ぼうぎゃくたのしむ鬼めいたその顔を見た瞬間、光の照り返しを受け刀身は白く染まる。

 一瞬の後に再び映った自分の顔は、幼子おさなごのように不安げな表情を浮かべていた。


 互いを食らい火花を散らす刃の向こう、龍親は朱羽の瞳を真っ直ぐに見据えている。その内に潜む何かを、瞳を通して透かし見ようとするように。


「なぁ朱羽。お前、自分がなんでのか……分かってないだろう?」


 その言葉に、朱羽は心臓を鷲掴わしづかみにされるような衝撃を受けた。龍親の瞳に映る己の顔が、動揺に強く引きつる。


「図星だな?」


 それを見取って得意げに笑う龍親に、朱羽は苦しげにうなずいた。


 ―五年前、眠りから目覚めたあの日。

 記憶の一部があの日から、朱羽の身体にはある異変が起こっていた。


 なにもかもが、目覚める以前とまるで違っていた。

 鍛えた覚えもないのに体力や筋力が付き、運動神経がひどく向上していた。

 いつの間にか研ぎ澄まされた感覚は、人の気配や、雑踏に紛れる個々の足音さえ、正確に感知するようになった。


 なにより、龍親にも教えてもらったことのないような剣技が、百戦錬磨のつわものが持つような極致の武芸が、この身に染み付いていた。

 まるで己の手足を動かすかのような自然さで、その絶技を振るえるほどに。


 目覚めるまでの空白の歳月。それを思う度に底無しの不安にさいなまれ、喉から手が出るほどに欲しがった己の過去を―


「……あんたなら、知ってるって言うの?」


 思わず、すがるような目で問うてしまう。

 龍親は何故か一瞬だけ目に見えて狼狽ろうばいし、強く目をつむった。

 それは己の内に生じた迷いを、無理矢理に押し潰すようであり……なにか取り返しのつかない失敗を、強く悔いるようでもあった。


「それはな……朱羽、お前がだ」

「……え?」


 再び開眼した龍親。その宣告に、全身から血の気が引いていくのが分かった。

 凍えるほどの怖気おぞけが肌を走り、身体は勝手に震え始める。


 そんな些細ささいな隙を見逃す龍親ではない。

 一歩の踏み込みに朱羽の身体は押し戻され、火花を散らして重なる刃はその鼻先へ近付く。


「そして、他でもないお前自身が、だよ」


 踏み留まろうとしていた朱羽は、鈍器で頭を殴り付けられたような感覚によろめいた。龍親の言葉がもたらした衝撃に思考は麻痺し、身体の感覚は鈍く薄らいでいく。

 刀を背に隠すように構え、身体を沈み込ませる龍親の動き―なんらかの技の予備動作さえも、眼中にはなかった。



 ――気付けば、よろめく身体はゆっくりと後ろに倒れていく。



 今の朱羽には、自分の身になにが起きたのか分からなかった。

 龍親がことさえ、知るよしもない。


 漫然まんぜんと流れる時間。

 呆然ぼうぜんとした思考の中。

 くさびのように胸に打ち込まれた言葉のとげと、全身から発せられる痛みだけが、唯一はっきりと知覚できるものだった。

 朦朧もうろうとする意識の中、朱羽はその感覚に対して、さえ覚えていた。


 ―あぁ、前にもこんなことあったっけ。


 倒れていく身体を支える術はなく、視界はゆっくりと上を向いていく。

 あおいだ空さえ不明瞭ふめいりょうな視界。意識と肉体を結ぶ糸がほつれいく中。

 という事実を漠然ばくぜんと噛みしめる朱羽の胸中には、


 ひどく単純で、

 あまりに純粋で、


 ゆえに核心をつく一言が思い浮かんだ。


・・・・・・


 九条龍親。

 『彼がなんと呼ばれているか?』という簡潔な問いには、いくつもの解答がある。

 例えば―旗本衆筆頭。

 例えば―臥龍がりょう

 そのどれもが正答でありながら、同時にでもある。


 しかしただひとつ、限りなく正解に近い解答を上げるとすれば、

 彼の本質を、的確に表現できる言葉がひとつだけあるとすれば、


 それは——

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