共振と追跡④

「最強? なんだよ、前評判の通りじゃないか」

「それしかないんだもの。彼を的確に表現できる言葉は」


 横薙ぎの一閃を右手で受け止めた蒼羅そらの言葉に、握り拳を塚頭つかがしらに叩き付けながら答える依智いち。激突の衝撃で水平に滑った刃は、それを握る掌を革手袋ごと裂いた。


「……ッ」


 痛みに顔を歪め反射的に手を離すと、拘束から逃れた白刃はすぐさま首を斬り落とそうと閃く。銀光が描く死への曲線、その軌道上に義肢を割り込ませて受け止める。


「じゃあ、ここで愚図ぐずってられないな」

「逃がすと思う?」


 大刀を弾き飛ばした蒼羅が後ろ足を下げると、依智は距離を詰めようと姿勢をわずかに低めた。

 身体に力を込めるために息を吸い込むその瞬間。

 蒼羅はえて前へと踏み込むと、依智の鼻から顎までを覆う布ごと鷲掴わしづかみにした。


 、真っ赤に染まった右の掌で。


「―んッ……あ、ぁぁァ……ッ!!」


 苦悶くもんに目を見開き眉間を歪める依智を見て、仮説が確証に変わる。

 一瞬の後退は牽制けんせいに過ぎない。本当の狙いはこれだ。


 依智の鼻は、常人の数十倍の精度を持つ犬並みの嗅覚。

 ならば、常人にとっては程度の血臭も、彼女にとってはたり得る。


「くぅぅ……んッ」


 仔犬こいぬめいた悶絶の声を上げながら、依智はそれでも刀を振るって蒼羅の腕を切り落とそうとしてくる。手を離し後ろへ引くと、切っ先が鼻をかすめていった。


 よろめき刀を取り落とした依智は、頭痛をこらえるように頭を押さえて首を振る。顔の下半分を覆う黒布には血が染み込み、その色をよりドス黒いものに変えていた。


 黒布をむしり取り、口元を手でぬぐう依智。

 その殺意に満ち満ちた視線を受けて、蒼羅は意地悪く笑った。せ返るような血の臭いに鼻腔を犯されれば、しばらくは他の臭いも辿たどれまい。

 依智の鼻は潰した。次は―


手前てめえッ……依智に何してんだッ!!」


 怒声と共に降ってきた長棍を半歩引いて避けると、蒼羅は体勢を戻し切れていない狒々愧ひびきへ一息に詰め、上段回し蹴りを叩き込んだ。

 こめかみに軍靴の爪先がめり込む。狒々愧はふらつきながらも、長棍を杖にして膝を突くことはまぬがれた。


 ようやっと動けるようになったようだが、先ほど朱羽あけはに潰された聴力はまだ戻り切っていない。後遺症が残っている今なら、雑踏に紛れた足音を聞き分けるのにも苦労するだろう。


 気絶させられれば良かったのだが、贅沢ぜいたくは言っていられない。短時間とはいえ、無力化は出来たのだから上々だ。

 これ以上こいつらに構ってる暇はない。蒼羅はきびすを返し、一目散に大通りへと走る。


「待ち、やがれ……クソッ!!」


 狒々愧の絞り出すような苦鳴はその背に届かず、地面へと吸い込まれていった。


・・・・・・


 何処どこかも分からない空間の中、朱羽の意識だけがそこに有った。


 記憶の断片が次々と浮かんでは、水に絵の具を溶かしたように薄ぼけていく。

 景色がごちゃまぜになり、極彩色ごくさいしきが混じり合い、それは溝鼠どぶねずみの毛色にも似た闇に暗転していく。

 やがてその内からまろびでたのは、懐かしい記憶のうちのひとつ。

 龍親たつちかに剣の稽古けいこを付けてもらっていたときの記憶だ。


 ―広い広い畳敷きの床にひとり、幼いあたしはそこでしていた。


 生まれたての小鹿のような震える四肢で、幾度いくども立ち上がろうとしては倒れ伏す。

 木刀で滅茶苦茶に叩かれた身体は動かそうとするたびに鋭い悲鳴を上げ、掌の血豆はつぶれて血がにじむ。

 目の前に放り投げられた木刀—積み重ねた鍛錬とともに削れてげたその—にも、赤い血がべっとりと付いていた。


「飛べない鳥は、地面につくばっているのがお似合いだ」


 言い捨てて去っていく龍親の背中をかすむ目でながめながら、あたしは悔しさのまま、握った拳を何度も床に叩き付けていた。

 腹の底で渦巻く、様々な感情を爆発させるように。


 けれどそれはむなしく反響するだけで、はらわたで煮える感情は収まりやしない。

 痛みでろくに回らない頭の中にぼんやりと浮かんでくるのは、九条の家に引き取られる前の生活。


「……兄様あにさま


 七つ上の兄がいた。

 強くて、優しくて、かっこいい。家族の誰より大好きな、あこがれの人。


 ―あたしがもっと、もっと、

 そう思った瞬間、誰かの声が聞こえた。


『悔しいか?』


 否、聞こえたというよりも、、と言った方が正しいのかもしれない。

 女性の声だ。すこし低めの、落ち着いた綺麗な声。

 次いでその誰かが―いつの間に現れたのか―あたしの顔の前にしゃがみこむのが分かった。


 その顔を確かめようと頭を上げても、痛みと痙攣けいれんはばまれて全ては見取れない。

 白一色の着物だ。細い身体の線からして、若い女性であることは分かった。唯一見えた口元は、どことなく母様かあさまに似てるな、と思った。

 でも母様じゃない。母様はそんな喋り方はしなかった。

 分からない。どんな感情をせた目で見下ろしているのか。口角を少しだけ持ち上げた薄い笑みに、どんな意味が込められているのかも。


 けれど、不思議と不安ではなかった。

 どこの誰かも分からない他人のはずなのに……そばにいるのが妙に心地よかった。


「だれ……?」

『悔しいか?』


 人かも分からぬそれは、あたしの問いには答えてくれず、もう一度同じ言葉を繰り返した。


 ―悔しくなんかない。


 息を吸い込んで、そう言い張ろうとした。強がりを言おうとした。

 弱虫で、泣き虫で、それでも負けん気が強いあたしは、悔しいことや悲しいことがあっても、人前では隠し通す性質タチだった。

 いまもそのつもりでいた。


「く、やし、いッ……!!」


 けれど。

 口から勝手にこぼれたのは、一番吐き出したくなかった弱音だった。


「悔しい、悔しい悔しい悔しい……ッ!!」


 一度口にしてしまうと、たかぶった感情を押し留められなくなった。

 せきを切ったように、嗚咽おえつと共にとめどなく言葉があふれ出す。


「どうしてっ、どう、して、あたしは、兄様みたいに強くないの。兄様みたいに、強くなりたいのに。兄様みたいに、かっこよくなりたいのに。あたしは、弱くて、泣き虫のまんまで、なにも変われないの。悔しい、悔しいっ」


 涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにしながら、全てを吐き出す。おりのように溜まっていた感情が、怒涛どとうとなって流れていく。

 不思議と、この人の前ではなにもかもさらけ出せる気がした。


 全てを聞き取ってゆっくりと頷いた女性は、細く冷たい指であたしの両の頬を包んで顔を持ち上げた。

 ようやく目にしたその姿に、見蕩みとれた。釘付けになった。


 そこにいるはずなのに、陽炎かげろうのようにどこかおぼろで。

 不意にまばたきでもしてしまったら、その一瞬で消え去ってしまいそうに揺らめいていた。

 白と黒、色のない無彩色。精巧な硝子細工がらすざいくが服を着たとでも言えばいいのか。

 それは比喩ひゆではなく、その肌や髪は透けて、透き通って―向こうの景色がぼんやりとのぞけた。


「……ぁ」


 なにか言おうとしたあたしの口に、女性は立てた人差し指を添えて言葉を遮る。

 その凛とした声音を優しげに震わせて、小さく笑った。


『“


 硝子がらすのような肌が、次第に色付いていく。

 透けていた髪は真っ白に染まり、白一色の着物は赤く塗りつぶされていく。


 それに反比例して、自分の身体が色褪いろあせていくのが見えた。

 肌や衣服の色は失せていき、やがて透けて、指先から溶けるように消えていく。色が奪われていくたび、あたしの

 やがて意識さえも遠のき、下りてきたまぶたが暗幕のように視界を閉ざしていく。


 それでも、不安や恐怖はまるで無かった。

 むしろあたしは安堵あんどし……母様の胸で眠るかのような安心感に、この身をゆだねようとさえ考えていた。


『全て、“私”が片付ける。お前は眠っていればいい』


『目が覚めたときには、痛いことも苦しいことも、全て終わっているから』


 ―あぁ、良かった。

 ―これで、辛いことから逃げられる。


・・・・・・


 目の前で起きたに、龍親たつちかは顔をしかめた。


 倒れるはずの朱羽が、後ろ足を引いて

 そして、糸にられた人形のような奇天烈きてれつな動きで身体を起こしたのだ。


 しかしその足元は覚束おぼつかず、幾度となくふらついて、その度に刀を杖にして均衡きんこうを取る。

 おそらく気力だけで立っている状態だろう。はやる精神に、疲弊ひへいした肉体が追い付いていない。

 だが、龍親の顔には明らかな焦りが見え始めていた。


 ——周囲の気温が変わっていく。


 不屈の闘志によって熱が上がるようでもあり、

 絶対零度の殺気にてられ冷え込んだようでもある。


 否、これは。不屈の闘志は、既に完膚かんぷなきまでに叩き折った。

 ならば残るのは―


 龍親は敵の目をまっすぐに見据えた。

 彼を見返す朱羽のまなじりは吊り上がり、その鋭さたるや猛禽もうきん彷彿ほうふつとさせる。


 そこに込められているのは、怖気おぞけさえ走るだ。


 純粋な殺意によって練り上げられた暗澹あんたんがその瞳を満たし、視線は死槍の一刺しめいて、見る者を居竦いすくませる。

 龍親は深い落胆とともに、嘆息たんそく混じりの声を上げた。


「ようやくお目覚めか―—『八咫烏ヤタガラス』」

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