六章 傷と過去
傷と過去①
暗闇の中にいた。
見渡す限りの黒の中に、
視線を下げても見えるのは黒一色。感覚は有るのに、手足や身体が見えない。
両の足で踏みしめているはずのそこは、しかし泥沼に足を踏み入れたような感触でもある。しっかりと立っているはずなのに、たゆたうような浮遊感をも感じる。
まるで、意識だけを暗闇の中に放り出されたようだ。
(俺……死んだのか?)
発した声は音にならず、思考の中で反響した。
手足はなく声も出せない。身体という器を失い、意識と感覚だけがそこにある。
ならばここが死後の世界という奴か? もしそうなら、
そこまで思考して、やるせない絶望と、煮えたぎるような怒りが
―終わり? こんなところで?
冗談じゃない。まだ俺はなにも成し遂げてない。
『あの日』のこと―知りたい真実に、なにひとつ
終わってなるものか。
終わらせてたまるものか。
それを知覚した瞬間、真っ白な細い線が一本、闇の中に引かれた。
一歩踏み出すと、彼方にあるその線が少し近付いた。もう一歩踏み出せば、さらに近付いたように見えた。
気付けば
近くまで辿り着き、見えない手を伸ばせば、その線に触れることができた。
絹のような滑らかさのそれは、天上から地獄へと垂らされた
それでも必死に
―どれだけ登っただろう。
やがて周囲の闇は鼠色に薄ぼけ、次第に白く白く染め上げられていく。闇色に塗りつぶされていた身体が色づいていく。
辺りを照らす光を掴もうと手を伸ばす。
誰かがそっと、握り返してくれた気がした。
・・・・・・
ぼやけていた視界がひとつの焦点を結び、映る景色を鮮明にしていく。
初めに見取れたのは、こちらに垂れる白髪の清流。その流れを辿り
薄い唇に細い
「……あけ、は?」
一瞬だけその目を見開いた後、
蒼羅は視線をぐるりと巡らせる。
木目の天井や
「……俺、どのくらい寝てた?」
掠れた声と身体に残る
こちらを見る瞳が『安静に』と言外に伝えていた。
「
思案するように視線を飛ばした後、そう返してくる朱羽。柄にも無く、その口調はこちらを心配するような色を帯びていた。
「……あぁ、少しなら」
「ちょっと待ってて、お
そう言って立ち上がり、部屋の奥に消える朱羽。
しばらくすると、湯気を上げる皿を手に戻ってきた。
「はい、どうぞ」
どん、と目の前に置かれる粥の皿。湯気を
「…………自分で、食えと?」
「…………食べられないの?」
「さっきまで、寝てたんだぞ、俺」
「はぁ……めんど……」
朱羽はわざとらしい
わずかな
「……なにボケっとしてんの。ほら、口開けて」
彼女のことだ、ろくに冷ましもせず口に突っ込んでくるに違いない―そう考えて身構えていた蒼羅は、しばし
「おいしい?」
小さく
「……お前これ、塩と砂糖を間違えただろ」
蒼羅は顔を歪めながら苦々しい顔で答えた。
・・・・・・
山々の
目覚めて半日ながら、蒼羅は布団から起き上がって少し動けるようになってきた。まだ痛みは
だからといってすぐさま日常生活に戻ることなど、出来るわけがない。
いま丁度、朱羽に付き添われて部屋へ戻ろうと歩を進めている。
支えなくても大丈夫と判断したのか、それとも元からその気などないのか―朱羽は左前を先導するように歩く。
頭頂部を見下ろす視点からその
しばらく思案してその正体に気付き、感じていた違和感を口に出す。
「背、意外と低いんだな」
足を止めてむっとした様子で振り返ってくる朱羽と、歩を進めていた蒼羅が並ぶ。
いつもなら視線がぶつかるのだが、いま水平に動かした視線は、白髪の清流の
視線を下げていき、白い
「ふん、せいぜい優越感に
朱羽は馬鹿にするように小さく笑い、下からいつものように見下してくる。蒼羅も意地悪く笑い返した。
「そうだな、さっそく横にいる人に自慢してみるよ。俺ってお前より背高いんだぜー? 良いだろー?」
言って、蒼羅は自分の頭頂部に乗せた手を、朱羽の頭の上まで水平に交互させた。当然、彼女の頭頂と蒼羅の手には隙間が出来る。
朱羽は呆れがちな視線を頭上にある
「……んっ」
背伸びをして爪先立ちになった。
頭頂部が掌につくと、こちらを見て、にやっ、と得意げに笑う。
―張り合うつもりか。
水平に並んだ二人の視線がぶつかって火花を散らした。蒼羅が爪先立ちになってさらに突き放す。
「はぁ……背はあたしより大きいのに、器は小さいのね。
朱羽は呆れたように鼻を鳴らし、軽く握った右の拳で蒼羅の左胸を小突いた。
すたすたと歩き去ってしまう朱羽を追い掛けようと、蒼羅も背伸びをやめて一歩踏み出す。
「…………ッ!!?」
その瞬間、言葉にできない痛みが全身の各所から危険信号のように発せられ、蒼羅は思わず崩れるようにしてその場にうずくまった。
「……いやいやいやいや。ちょっと、冗談だから。そんな
背後からの
「いや、笑い事じゃ、ねぇって……傷、どっかの傷、開いた」
「はぁー?」
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