六章 傷と過去

傷と過去①


 暗闇の中にいた。

 見渡す限りの黒の中に、獅喰蒼羅しばみそらはぽつりと立っていた。


 視線を下げても見えるのは黒一色。感覚は有るのに、手足や身体が見えない。

 両の足で踏みしめているはずのそこは、しかし泥沼に足を踏み入れたような感触でもある。しっかりと立っているはずなのに、たゆたうような浮遊感をも感じる。

 まるで、意識だけを暗闇の中に放り出されたようだ。


 (俺……死んだのか?)


 発した声は音にならず、思考の中で反響した。

 手足はなく声も出せない。身体という器を失い、意識と感覚だけがそこにある。


 ならばここが死後の世界という奴か? もしそうなら、随分ずいぶんさびしいものだ。

 そこまで思考して、やるせない絶望と、煮えたぎるような怒りがき上がってきた。


 ―終わり? こんなところで?


 冗談じゃない。まだ俺はなにも成し遂げてない。

 『あの日』のこと―知りたい真実に、なにひとつ辿たどりり着いていない。


 終わってなるものか。

 終わらせてたまるものか。

 渦巻うずまく激情に呼応するように、右手に感じる温もり。


 それを知覚した瞬間、真っ白な細い線が一本、闇の中に引かれた。

 一歩踏み出すと、彼方にあるその線が少し近付いた。もう一歩踏み出せば、さらに近付いたように見えた。


 気付けば蒼羅そらは走っていた。奇妙な浮遊感を覚えながら、一目散に。

 近くまで辿り着き、見えない手を伸ばせば、その線に触れることができた。


 絹のような滑らかさのそれは、天上から地獄へと垂らされた蜘蛛くもの糸のようだった。離すまいと力を込めれば、容易たやすく千切れてしまうだろう。

 それでも必死につかみ、辿り、伝い、無我夢中で登っていく。この暗闇に戻るのは御免ごめんだ。


 ―どれだけ登っただろう。


 やがて周囲の闇は鼠色に薄ぼけ、次第に白く白く染め上げられていく。闇色に塗りつぶされていた身体が色づいていく。

 辺りを照らす光を掴もうと手を伸ばす。


 誰かがそっと、握り返してくれた気がした。


・・・・・・


 ぼやけていた視界がひとつの焦点を結び、映る景色を鮮明にしていく。

 初めに見取れたのは、こちらに垂れる白髪の清流。その流れを辿りさかのぼっていくと、やがて誰かの顔へ行き着いた。


 薄い唇に細い鼻梁びりょう。長い睫毛まつげ縁取ふちどられた、やや吊った猫のような目がこちらをじっと見据えている。

 端正たんせいな顔に浮かぶ表情は、不安で張り詰めていた。


「……あけ、は?」


 かすれた声で、こちらを見つめる少女―九条朱羽くじょうあけはの名を呼ぶ。

 一瞬だけその目を見開いた後、安堵あんどの吐息と共に緊張をほころばせる朱羽あけは。その表情は、まばたきの間にいつもの無愛想なものとへ戻っていた。右手に感じていた熱がするりと離れていく。


 蒼羅は視線をぐるりと巡らせる。

 木目の天井や漆喰しっくいの壁、畳敷きの床。小綺麗な調度品を見るにどこかの宿か。窓の外の景色を見るに、昼を回った頃だろう。


「……俺、どのくらい寝てた?」


 掠れた声と身体に残る疼痛とうつうに顔をしかめながら上体を起こそうとすると、朱羽は手をかざして蒼羅の動きを制する。

 こちらを見る瞳が『安静に』と言外に伝えていた。


虎堂こどうと戦ったのが一昨日おととい。そこから丸一日寝てて、今はお昼。……なにか、食べられそう?」


 思案するように視線を飛ばした後、そう返してくる朱羽。柄にも無く、その口調はこちらを心配するような色を帯びていた。


「……あぁ、少しなら」

「ちょっと待ってて、おかゆ持ってくるから」


 そう言って立ち上がり、部屋の奥に消える朱羽。

 しばらくすると、湯気を上げる皿を手に戻ってきた。


「はい、どうぞ」


 どん、と目の前に置かれる粥の皿。湯気をはさんで互いの顔を見合い、しばしの沈黙。


「…………自分で、食えと?」

「…………食べられないの?」

「さっきまで、寝てたんだぞ、俺」

「はぁ……めんど……」


 朱羽はわざとらしい嘆息たんそくのあと、さじで一口分をすくいあげる。

 わずかな逡巡しゅんじゅんのあと、ふー、と息をかけて冷まし、思っていたよりも丁寧な手付きで口許くちもとへ運んできた。


「……なにボケっとしてんの。ほら、口開けて」


 彼女のことだ、ろくに冷ましもせず口に突っ込んでくるに違いない―そう考えて身構えていた蒼羅は、しばし呆然ぼうぜんとしてしまっていた。

 うながされて我に返り、言われるがまま匙をくわえ、流し込まれる粥を飲み込む。


「おいしい?」


 小さく微笑ほほえんで反応をうかがう朱羽に、


「……お前これ、塩と砂糖を間違えただろ」


 蒼羅は顔を歪めながら苦々しい顔で答えた。


・・・・・・


 山々の稜線りょうせんに日が沈み、宵闇が夕焼けのだいだいを塗りつぶし始めた頃。

 目覚めて半日ながら、蒼羅は布団から起き上がって少し動けるようになってきた。まだ痛みはともなうものの、無視できないほどではない。


 だからといってすぐさま日常生活に戻ることなど、出来るわけがない。精々せいぜいが部屋とかわやを行き来することぐらいだった。

 いま丁度、朱羽に付き添われて部屋へ戻ろうと歩を進めている。


 支えなくても大丈夫と判断したのか、それとも元からその気などないのか―朱羽は左前を先導するように歩く。

 頭頂部を見下ろす視点からその華奢きゃしゃな背中を眺めながら、蒼羅はなぜかその光景に違和感を覚えていた。

 しばらく思案してその正体に気付き、感じていた違和感を口に出す。


「背、意外と低いんだな」


 足を止めてむっとした様子で振り返ってくる朱羽と、歩を進めていた蒼羅が並ぶ。

 いつもなら視線がぶつかるのだが、いま水平に動かした視線は、白髪の清流のみなもと—つむじの辺りを見ている。だいたい頭半分といったところか。

 視線を下げていき、白い長足袋ながたびに包まれた爪先まで見取ったあたりで、の下駄がないからか、と納得した。


「ふん、せいぜい優越感にひたってれば。あんたが人に自慢できる数少ない長所だもの、ねぇ?」


 朱羽は馬鹿にするように小さく笑い、下からいつものように見下してくる。蒼羅も意地悪く笑い返した。


「そうだな、さっそく横にいる人に自慢してみるよ。俺ってお前より背高いんだぜー? 良いだろー?」


 言って、蒼羅は自分の頭頂部に乗せた手を、朱羽の頭の上まで水平に交互させた。当然、彼女の頭頂と蒼羅の手には隙間が出来る。

 朱羽は呆れがちな視線を頭上にあるてのひらへ送った後、


「……んっ」


 背伸びをして爪先立ちになった。

 頭頂部が掌につくと、こちらを見て、にやっ、と得意げに笑う。

 ―張り合うつもりか。

 水平に並んだ二人の視線がぶつかって火花を散らした。蒼羅が爪先立ちになってさらに突き放す。


「はぁ……背はあたしより大きいのに、器は小さいのね。残念ざーんねん


 朱羽は呆れたように鼻を鳴らし、軽く握った右の拳で蒼羅の左胸を小突いた。

 すたすたと歩き去ってしまう朱羽を追い掛けようと、蒼羅も背伸びをやめて一歩踏み出す。


「…………ッ!!?」


 その瞬間、言葉にできない痛みが全身の各所から危険信号のように発せられ、蒼羅は思わず崩れるようにしてその場にうずくまった。


「……いやいやいやいや。ちょっと、冗談だから。そんな大袈裟おおげさな反応いらないから」


 背後からの仰々ぎょうぎょうしい物音に足を止めて振り返る朱羽。その口調は半笑いだった。


「いや、笑い事じゃ、ねぇって……傷、どっかの傷、開いた」

「はぁー?」

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