凹と凹③
「―
いきなり、街中に
低くよく通る美声だ。しかし個人に呼びかけるに適切な声量ではない。
当人は
当然、通りにいた人々が驚いたように声の方向へ振り返る。
あっちこっちの戸口が開いて
蒼羅も思わず振り返り、その大声量を
通りの入り口に、明らかに周囲と雰囲気の違う人物がいた。
通りが騒がしくなる中、一人だけ微動だにしない人物がいた。
朱羽である。
呼びかけられた瞬間に両肩がびくぅ、と震えたきり、まるで石になったかのように動かない。
「おい、朱羽? どうし―」
「逃げる」
不思議に思った蒼羅が声を掛けると、実に端的な答えが返ってきた。
意味が分からず聞き返そうとする蒼羅を無視して、有無を言わさぬ勢いで朱羽は叫んだ。
「いいから逃げるのッ!」
がしっ、と蒼羅の手首を
突然の全力疾走に危うく足がもつれそうになりながらも、どうにかその速度についていく。
「あっ、ちょっと、まッ、待ってくれぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇッ!!」
背後で、情けなく震える絶叫が聞こえた。
・・・・・・
「―はぁッ、は、はふ、はぁ………ま、
息も絶え絶えになりながら、二人は路地裏にある長屋の壁に背を預けていた。問いかける朱羽に、蒼羅は記憶を
「い、いや、あいつ最初っから、はッ、追っかけて、来なかったぞ」
朱羽に手を引かれるまま駆ける中、蒼羅が振り返ったときには、男は五体倒地して嘆きの絶叫を上げていた。
「さ、さすがにもう大丈夫でしょ……」
「あ、すみませ……」
「
相手の顔もろくに見ないまま頭を下げた朱羽に降り掛かったのは、低くよく通る美声。ついさっき聞いたばかりのそれに、頭を上げようとした朱羽の動きが固まる。
その様を一歩引いた場所から見ていた蒼羅は、あちゃー、と頭を抱えた。
朱羽が通りへ出ようとするのと、例の男がこちらに追いつくのが、どうやら時期悪く重なってしまったらしい。
「いきなり僕の前から姿を消すだなんて、酷いじゃないかァッ!!」
男は目に涙を溜め、彫りの深い
「君の輝きを見失い、僕はつい最近まで暗闇の中に閉ざされていた……だが安心したまえ。千里四方、
男は言葉とともに朱羽の前に
「―御剣姫、僕の
突然、朱羽へ求婚したのだ。それも薄暗い路地裏で。
さすがの蒼羅も『えぇ……』と
「
男はもう片方の手で朱羽を指し示したあと、どん、と自らの胸を叩く。
「音楽と芸術を極めた、栄華の道を征く
朱羽から手を離すと、男は祝福を全身で
「これほどに美しい夫婦が、この世界にいるだろうかッ……いいやいるとも」
「僕とッ!」
「君のッ!!」
「二人だッ!!!」
反語にすらなっていない妙な言い回しで叫んだ男は、くるりと回りながら立ち上がり大きく両手を広げる。立ったり座ったり
「さぁおいで、僕の胸へ!!」
「―いいえ、遠慮しておきます」
聞き慣れない声に、蒼羅は首がもぎれんばかりの勢いで朱羽の方を振り向いた。
「恋仲でもないのに、
聞いたこともない甘く柔らかな声音に、見たこともない可愛らしい愛想笑い。朱羽はわざとらしく頬を染め、自分の身体を不安そうにかき抱く。
—演技だ、絶対演技だ。
蒼羅はそれを見て呆れたように息を吐きながら、しかし納得もしていた。
なるほど。こんな姿を見せているなら、上流貴族が
今の朱羽は、
この女が人を冷めた目で
現に蒼羅自身が、普段との落差に夢でも見てるんじゃないかと錯覚しているほどなのだ。
「それに、もう心に決めた人がいるんです。―ねぇ、蒼羅?」
朱羽はそう言うと、さらりとごく自然に蒼羅と腕を組み、身体を密着させた。
「「え?」」
蒼羅と男の困惑の声が重なる。……なんのつもりだ?
なにか不穏なものを勘付き、拘束から逃れようと身をよじる蒼羅。朱羽は―普段なら絶対に見せないような―とびきり満面の笑みを彼に向けると、
「 合 わ せ て 」
組んだ腕を関節技のように巧みに
「…………」
「暴漢に絡まれていたところを、この人に助けて頂いたことがあるんです。それから何度かお会いする機会があって。……彼、『
はにかみながら
その
蒼羅は頭痛を
「な、な……そんな……」
目を見開いていた男は、朱羽の言葉に
「—
割り込んできた別の女性の声が、空気を小さく震わす。
それは優しげな
その場にいた全員が、声が聞こえた方向を振り返る。視線の先にいたのは、見慣れない修道女だった。
歳は二十歳過ぎだろうか、小柄な体躯を濃紺色の修道服に包んでいる。
藤色の
小動物を思わせる姿に、清楚さとどこか影のある雰囲気を併せ持つ、不思議な女性だ。
蒼羅はしばらく間抜けな顔をして彼女に
麗雅と呼ばれた男はその修道女を見て、ばつの悪そうに顔を
「む……シスター、遅かったな」
「もう、誰の
シスターと呼ばれた女性は、腰に手を当て、むぅ、と小さく頬を
「急に走り出したと思ったら、通りの真ん中で大声上げる、五体投地して泣きじゃくる、また走り出す……」
「だが、これは……」
「貴方の大声の所為で、お年を召した方たちが腰を抜かして。貴方が
「いや、だから」
「讃美音宮家の男子たるもの、無様な言い訳はしないッ」
ぴしゃりと言い
そして、どうやらシスターの言い分は彼としてもご
「そんなだから
「うぐぅッ!?」
シスターはそんな麗雅に非情な追い打ちをかけた。心が痛むのか、麗雅は心臓を押さえてうずくまる。
蒼羅はそんな彼に同情し温かい視線を送りながら、聞き捨てならない単語に顔を顰めた。……許嫁?
ふんっ、とそっぽを向いたシスターは、膝を付きくずおれる麗雅の脇をすり抜け、蒼羅と朱羽の前に立つ。
と、その表情は一転。眉を八の字に下げて痛ましいほどの申し訳なさを
「本当に、本っ当に申し訳ありません。朱羽様と―」
面を上げたシスターが朱羽の顔を見て、次いで蒼羅へと視線を向けた瞬間。
「……あなたは」
彼女は
しかし蒼羅には覚えがない。
どこかで会ったのだろうか? でもこんな守備範囲ど真ん中の美人、一目見ただけでも絶対に覚えているはずだ。
「あぁ、ごめんなさい。昔の知り合いに……とても良く似ていたので」
蒼羅が首を
「お付きの方にはご
シスターの自己紹介を聞いた蒼羅はあまりの衝撃に、しばらくあんぐりと口を開けていた。
『雅郭』。
『
この国の
今ではどこよりも異国文化の流入が進み、異国の建築様式を真似た華やかな屋敷が立ち並ぶ通りを、洋装の人々が
この区画に足を踏み入れた者は、みな口を揃えて『まるで異国に迷い込んだようだ』と言うほどだ。
そして『
思わず『え、あれが?』という失望に似た感情が沸き起こる。
「?」
蒼羅の心中など知らぬシスターは、不安と不審の混ざった目でこちらを見る。
彼女が黒手袋に包まれた右手を差し伸べていたことに気付き、蒼羅がわずかに
「よろしくお願いしますね」
優しく微笑みかけられ、蒼羅は頬を染める。朱羽からの冷たい視線が肌に刺さる。
握手の後、シスターは朱羽へ再び深々と頭を下げた。
「本当に申し訳ありません。許嫁様のこととなると、どうも歯止めが利かないらしくて。不愉快な思いをされたのなら、この通り」
「いえ、シスターさんが謝ることでは無いですから」
「すみません。きちんと言って聞かせますので、ご容赦ください」
ぺこぺこと頭を下げるシスターに
「それでは、この辺でお
朱羽は姿勢を正し、小さく頭を下げる。
と、何を思ったか隣の蒼羅の頭をがっしと掴み、自分よりも深く頭を下げさせた。
―この野郎ッ。
蒼羅は文句を言おうとして、しかし寸前で思いとどまる。
この場を無事に切り抜けるためには、朱羽の
「えぇ、それではまた」
シスターは小さく笑みを返すと、麗雅へと駆け寄っていった。
「ほら、行きますよ麗雅さん。栄華の道を征く讃美音宮家の跡継ぎが、こんな薄暗い路地裏でしょぼくれててどうするんですか……」
通りへ逃げるように向かう蒼羅と朱羽の後ろから、困ったようなシスターの声が聞こえた。
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