凹と凹③

「―嗚呼ああッ、我がいとしの御剣姫みつるぎひめ!! こんなに殺風景さっぷうけいな場所にたたずんでいようとはッ!」


 いきなり、街中に胡散臭うさんくさい大喝がとどろいた。

 低くよく通る美声だ。しかし個人に呼びかけるに適切な声量ではない。

 当人は久方ひさかたぶりにえて気分がたかぶっていたとはいえ―そんなことを蒼羅そら朱羽あけはが知るよしもない―やりすぎというものだ。


 当然、通りにいた人々が驚いたように声の方向へ振り返る。

 あっちこっちの戸口が開いて暖簾のれんがめくられ、眼を丸くした町人たちが顔を出してきた。そのうちになんだなんだ、わいわいがやがやと騒ぎ始め、まもなく通りは野次馬たちの喧騒けんそうで埋め尽くされる。

 蒼羅も思わず振り返り、その大声量をせ付けた人物を見る。

 通りの入り口に、明らかに周囲と雰囲気の違う人物がいた。


 気障きざな雰囲気をかもす、二十歳はたち過ぎほどの男だ。金箔を塗り込んだような珍しい色の髪を派手に撫で付け、上質な黒の燕尾服を着込んでいる。この辺りではあまり見かけない格好だ。


 通りが騒がしくなる中、一人だけ微動だにしない人物がいた。

 朱羽である。

 呼びかけられた瞬間に両肩がびくぅ、と震えたきり、まるで石になったかのように動かない。


「おい、朱羽? どうし―」

「逃げる」


 不思議に思った蒼羅が声を掛けると、実に端的な答えが返ってきた。

 意味が分からず聞き返そうとする蒼羅を無視して、有無を言わさぬ勢いで朱羽は叫んだ。


「いいから逃げるのッ!」


 がしっ、と蒼羅の手首をつかむと、朱羽は勢い良く駆け出した。

 突然の全力疾走に危うく足がもつれそうになりながらも、どうにかその速度についていく。


「あっ、ちょっと、まッ、待ってくれぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇッ!!」


 背後で、情けなく震える絶叫が聞こえた。


・・・・・・


「―はぁッ、は、はふ、はぁ………ま、いたぁ?」


 息も絶え絶えになりながら、二人は路地裏にある長屋の壁に背を預けていた。問いかける朱羽に、蒼羅は記憶を反芻はんすうする。


「い、いや、あいつ最初っから、はッ、追っかけて、来なかったぞ」


 朱羽に手を引かれるまま駆ける中、蒼羅が振り返ったときには、男は五体倒地して嘆きの絶叫を上げていた。


「さ、さすがにもう大丈夫でしょ……」


 疲弊ひへいした様子の朱羽が路地裏から出ようとすると、どん、と通行人とぶつかった。


「あ、すみませ……」

嗚呼ああッ、ここにいたかッ!!」


 相手の顔もろくに見ないまま頭を下げた朱羽に降り掛かったのは、低くよく通る美声。ついさっき聞いたばかりのそれに、頭を上げようとした朱羽の動きが固まる。

 その様を一歩引いた場所から見ていた蒼羅は、あちゃー、と頭を抱えた。


 朱羽が通りへ出ようとするのと、例の男がこちらに追いつくのが、どうやら時期悪く重なってしまったらしい。


「いきなり僕の前から姿を消すだなんて、酷いじゃないかァッ!!」


 男は目に涙を溜め、彫りの深い精悍せいかんな顔をぐしゃりと歪めると、どこか芝居しばいがかった調子で乙女のように泣き崩れた。


「君の輝きを見失い、僕はつい最近まで暗闇の中に閉ざされていた……だが安心したまえ。千里四方、何処どこにいようと君の姿は僕が必ず見つけてみせる。たった今、僕が君を見つけたようにッ!!」


 男は言葉とともに朱羽の前にひざまずいてうやうやしくその手を取ると、臆面おくめんもなく叫んだ。


「―御剣姫、僕の伴侶はんりょとして、生涯を共にして欲しいッ!!」


 突然、朱羽へ求婚したのだ。それも薄暗い路地裏で。

 さすがの蒼羅も『えぇ……』と狼狽ろうばいする。いくらなんでも場所が悪すぎる。特に雰囲気なんか最悪だ。


鬼神きしんのごとき強さと、はかなげな美しさをあわつ君ッ」


 男はもう片方の手で朱羽を指し示したあと、どん、と自らの胸を叩く。


「音楽と芸術を極めた、栄華の道を征く讃美音宮さびのみや家―その長男。最高にみやびうるわしい僕ッ」


 朱羽から手を離すと、男は祝福を全身で享受きょうじゅするかのように両手を広げる。


「これほどに美しい夫婦が、この世界にいるだろうかッ……いいやいるとも」


「僕とッ!」


「君のッ!!」


「二人だッ!!!」


 反語にすらなっていない妙な言い回しで叫んだ男は、くるりと回りながら立ち上がり大きく両手を広げる。立ったり座ったりせわしない奴だ。


「さぁおいで、僕の胸へ!!」

「―いいえ、遠慮しておきます」


 聞き慣れない声に、蒼羅は首がもぎれんばかりの勢いで朱羽の方を振り向いた。


「恋仲でもないのに、みだりに殿方に身体を預けるだなんて。そんな不躾ぶしつけなこと、私にはとても……」


 聞いたこともない甘く柔らかな声音に、見たこともない可愛らしい愛想笑い。朱羽はわざとらしく頬を染め、自分の身体を不安そうにかき抱く。

 —演技だ、絶対演技だ。

 蒼羅はそれを見て呆れたように息を吐きながら、しかし納得もしていた。

 なるほど。こんな姿を見せているなら、上流貴族がれ込むのもうなずける。


 今の朱羽は、はたから見れば初心うぶな良家の令嬢れいじょうだ。キツそうな猫目も今は優しく垂れ、男の顔を映す瞳は不安をうれうように揺れる。

 この女が人を冷めた目でにらみ、口を開けば嫌味か皮肉が飛び出す冷血人間だと言っても、あの男は信じないだろう。

 現に蒼羅自身が、普段との落差に夢でも見てるんじゃないかと錯覚しているほどなのだ。


「それに、もう心に決めた人がいるんです。―ねぇ、蒼羅?」


 朱羽はそう言うと、さらりとごく自然に蒼羅と腕を組み、身体を密着させた。


「「え?」」


 蒼羅と男の困惑の声が重なる。……なんのつもりだ?

 なにか不穏なものを勘付き、拘束から逃れようと身をよじる蒼羅。朱羽は―普段なら絶対に見せないような―とびきり満面の笑みを彼に向けると、


「 合 わ せ て 」


 組んだ腕を関節技のように巧みにめながら、蒼羅の耳朶じだに近付けた唇からおどしを含んだ酷薄こくはくな声を吹きかけた。


「…………」


 仏頂面ぶっちょうづらで固まる蒼羅を見てひとつ頷くと、朱羽は再び令嬢然とした態度を作って男に視線を投げる。


「暴漢に絡まれていたところを、この人に助けて頂いたことがあるんです。それから何度かお会いする機会があって。……彼、『旗本衆はたもとしゅう』の役人さんなんですよ。なんでも期待の新人だとか―」


 はにかみながら滔々とうとうと語る朱羽。

 その仔細しさいは違えど、ほとんど事実なのが腹立たしい。どうしてこうも自分に都合良く改変できるのか。

 蒼羅は頭痛をこらえるように強く目をつむった。


「な、な……そんな……」


 目を見開いていた男は、朱羽の言葉に唖然あぜんと口を開け、今やもう外れているんじゃないかと心配になるほど下がったあごをがくがく震わせていた。


「—麗雅うるまささん」


 割り込んできた別の女性の声が、空気を小さく震わす。

 それは優しげな声音こわねながら、どこかたしなめるような響きを伴っていた。

 その場にいた全員が、声が聞こえた方向を振り返る。視線の先にいたのは、見慣れない修道女だった。


 歳は二十歳過ぎだろうか、小柄な体躯を濃紺色の修道服に包んでいる。

 藤色のつやを持つふわりとした黒髪。伸びた前髪で左目が隠され、唯一ゆいいつ覗く右目は憂うように垂れている。目尻には泣きぼくろ。

 小動物を思わせる姿に、清楚さとどこか影のある雰囲気を併せ持つ、不思議な女性だ。


 蒼羅はしばらく間抜けな顔をして彼女に見蕩みとれていた。―綺麗だ。

 麗雅と呼ばれた男はその修道女を見て、ばつの悪そうに顔をしかめた。


「む……シスター、遅かったな」

「もう、誰の所為せいだと思ってるんですか」


 シスターと呼ばれた女性は、腰に手を当て、むぅ、と小さく頬をふくらした。


「急に走り出したと思ったら、通りの真ん中で大声上げる、五体投地して泣きじゃくる、また走り出す……」

「だが、これは……」

「貴方の大声の所為で、お年を召した方たちが腰を抜かして。貴方が無様ぶざまに男泣きなんてするものだから、周りの子供たちがつられて泣き出して。……もう表の通りは阿鼻叫喚あびきょうかんの地獄絵図です」

「いや、だから」

「讃美音宮家の男子たるもの、無様な言い訳はしないッ」


 ぴしゃりと言いすくめられ、麗雅はきゅっとその身を縮めて肩を震わせた。シスターは控えめな性格に見えて、言うことはきちんと言う性分らしい。

 そして、どうやらシスターの言い分は彼としてもごもっとものようだ。麗雅はうつむいたまま黙り込んでしまう。


「そんなだから許嫁いいなずけ様に振り向いてもらえないんです」

「うぐぅッ!?」


 シスターはそんな麗雅に非情な追い打ちをかけた。心が痛むのか、麗雅は心臓を押さえてうずくまる。

 蒼羅はそんな彼に同情し温かい視線を送りながら、聞き捨てならない単語に顔を顰めた。……許嫁?

 ふんっ、とそっぽを向いたシスターは、膝を付きくずおれる麗雅の脇をすり抜け、蒼羅と朱羽の前に立つ。


 と、その表情は一転。眉を八の字に下げて痛ましいほどの申し訳なさをにじませ、凄まじい勢いで頭を下げた。


「本当に、本っ当に申し訳ありません。朱羽様と―」


 面を上げたシスターが朱羽の顔を見て、次いで蒼羅へと視線を向けた瞬間。


「……あなたは」


 彼女は呆然ぼうぜんとそうこぼし、目を見開いて固まった。驚きの表情の中には、旧来の知人を見るかのような懐かしさが滲んでいる。


 しかし蒼羅には覚えがない。

 どこかで会ったのだろうか? でもこんな守備範囲ど真ん中の美人、一目見ただけでも絶対に覚えているはずだ。


「あぁ、ごめんなさい。昔の知り合いに……とても良く似ていたので」


 蒼羅が首をひねっているうちに、我に返ったシスターは頬を染めて苦笑する。


「お付きの方にはご挨拶あいさつがまだでしたね。私はシスター・ヒプノ。『雅郭ががく』の教会で神におつかえするかたわら、讃美音宮家で麗雅さんの教育係をしております」


 シスターの自己紹介を聞いた蒼羅はあまりの衝撃に、しばらくあんぐりと口を開けていた。


 『雅郭』。

 『大江都萬街おおえどよろずまち』の西北に位置する、この国の名だたる貴族たちが寄り集まっている区画だ。幕府の重鎮の一部はこの区画からの出身が多い。

 この国のおもむきに飽き、財の有り余っていた彼らは、目新しい異国文化に真っ先に飛びついた。

 今ではどこよりも異国文化の流入が進み、異国の建築様式を真似た華やかな屋敷が立ち並ぶ通りを、洋装の人々が闊歩かっぽする光景が見られる。

 この区画に足を踏み入れた者は、みな口を揃えて『まるで異国に迷い込んだようだ』と言うほどだ。


 そして『讃美音宮さびのみや家』は、『雅郭』の貴族の中でも有数の権力を持つ家のひとつ。シスターの後ろでうずくまっている男は、よりにもよっていずれは家督を継ぐであろう長男坊。


 思わず『え、あれが?』という失望に似た感情が沸き起こる。


「?」


 蒼羅の心中など知らぬシスターは、不安と不審の混ざった目でこちらを見る。

 彼女が黒手袋に包まれた右手を差し伸べていたことに気付き、蒼羅がわずかに躊躇ちゅうちょしながら右手で握り返すと、彼女は空いている左手を包みこむように添えた。


「よろしくお願いしますね」


 優しく微笑みかけられ、蒼羅は頬を染める。朱羽からの冷たい視線が肌に刺さる。

 握手の後、シスターは朱羽へ再び深々と頭を下げた。


「本当に申し訳ありません。許嫁様のこととなると、どうも歯止めが利かないらしくて。不愉快な思いをされたのなら、この通り」

「いえ、シスターさんが謝ることでは無いですから」

「すみません。きちんと言って聞かせますので、ご容赦ください」


 ぺこぺこと頭を下げるシスターに曖昧あいまいな苦笑いを返した後、朱羽は距離を置くように一歩下がる。


「それでは、この辺でおいとまさせていただきますね」


 朱羽は姿勢を正し、小さく頭を下げる。

 と、何を思ったか隣の蒼羅の頭をがっしと掴み、自分よりも深く頭を下げさせた。


 ―この野郎ッ。


 蒼羅は文句を言おうとして、しかし寸前で思いとどまる。

 この場を無事に切り抜けるためには、朱羽の面子めんつを潰さない方が賢明だ。


「えぇ、それではまた」


 シスターは小さく笑みを返すと、麗雅へと駆け寄っていった。


「ほら、行きますよ麗雅さん。栄華の道を征く讃美音宮家の跡継ぎが、こんな薄暗い路地裏でしょぼくれててどうするんですか……」


 通りへ逃げるように向かう蒼羅と朱羽の後ろから、困ったようなシスターの声が聞こえた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る